大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和50年(特わ)2469号 判決

目次

主文・・・・・・二〇三六

理由・・・・・・二〇三六

(罪となるべき事実)・・・・・・二〇三六

(証拠の標目)・・・・・・二〇三七

(弁護人の主張に対する判断)・・・・・・二〇四二

第一 本件の争点及び前提となる事実・・・・・・二〇四三

第二 荻野の昭和四七年分所得税逋脱に関する被告人の共謀の有無・・・・・・二〇四四

一 弁護人の主張の要旨・・・・・・二〇四五

二 認定できる事実・・・・・・二〇四五

三 結論・・・・・・二〇四九

第三 川崎物件の取引主体及びそれに伴う所得秘匿行為の認定・・・・・・二〇四九

一 川崎物件の概要及び争点・・・・・・二〇四九

1 川崎物件の概要・・・・・・二〇四九

2 争点・・・・・・二〇五〇

二 実質所得者課税の原則と虚偽仮装取引との関係・・・・・・二〇五〇

三 被告人及び荻野において川崎物件につき、志学館名義に藉口して取引をしようと決意するに至った経緯並びに検察官調書の任意性、信憑性・・・・・・二〇五一

1 取引仮装を決意するに至った経緯・・・・・・二〇五一

2 検察官調書の任意性、信憑性に対する主張についての判断・・・・・・二〇五五

四 川崎物件にかかる売買取引の経緯・・・・・・二〇五七

1 荻野が三洋工業から土地A、B及び建物Dを買取った経緯・・・・・・二〇五七

2 建物C2、F及びEを中電商事、菅野清治から取得した経緯・・・・・・二〇五八

3 建物C1をゼネラル交易から取得した経緯・・・・・・二〇六〇

4 土地A、B及び建物Dについての荻野と志学館との仮装売買取引の経緯・・・・・・二〇六一

5 長谷川工務店との売買契約に至る経緯・・・・・・二〇六一

五 虚偽仮装取引の認定・・・・・・二〇六三

1 総説・・・・・・二〇六三

2 売買契約の重要事項の意思決定者・・・・・・二〇六四

3 荻野・志学館間の売買取引の仮装行為性・・・・・・二〇六九

4 志学館の意思決定の不存在・・・・・・二〇七四

5 荻野の計算による本件取引資金の調達・・・・・・二〇七六

6 川崎物件売却代金の管理、運用状況・・・・・・二〇八〇

六 弁護人のその余の主張に対する判断・・・・・・二〇九〇

(法令の適用)・・・・・・二〇九四

別紙(一) 修正損益計算書(昭和四七年分)・・・・・・二〇九六

別紙(二) 修正損益計算書(昭和四八年分)・・・・・・二〇九七

別紙(三) 税額計算書・・・・・・二〇九八

本籍

鹿児島県川辺郡知覧町西元八八五八番地

住居

東京都足立区梅田三丁目二九番七号 鎗田喜太郎方

法人役員

永山髙雄

昭和四年八月七日生

右の者に対する所得税法違反被告事件につき、当裁判所は、検察官五十嵐紀男出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人を懲役一年に処する。

この裁判確定の日から三年間、右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は、その二分の一を被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、東京都足立区千住旭町二番三号において不動産、金融、旅館業を営んでいた分離前の相被告人亡荻野寅市(昭和五五年一一月一三日死亡。以下「荻野」という。)の不動産売買業の代理業務及びその事業全般に関する経理事務に従事するかたわら、財団法人英学塾志学館(以下「志学館」という。)の理事の職にあったものであるが、荻野の所得税を免れようと企て、荻野と共謀のうえ、実際は荻野において行った不動産売買について恰も志学館の取引行為であるかの如く仮装し、あるいは売却利益を圧縮して記帳し、又は、受取利息収入、家賃収入を除外する等の方法により所得を秘匿したうえ、

第一  荻野の昭和四七年分の実際総所得金額が二一〇三万二六五七円(別紙(一)の修正損益計算書参照)あったのにかかわらず、昭和四八年三月一五日、東京都足立区千住旭町四番二一号所在の所轄足立税務署において、同税務署長に対し、同年分の総所得金額が五六八万二四一四円であり、これに対する所得税額が一一六万七八〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書(昭和五〇年押第二一一八号符8)を提出し、そのまま納期限を徒過させ、もって不正の行為により、同年分の正規の所得税額九〇三万九四〇〇円(別紙(三)の税額計算書参照)と右申告税額との差額七八七万一六〇〇円を免れ、

第二  荻野の昭和四八年分の実際総所得金額が二億九〇八〇万六八四八円(別紙(二)の修正損益計算書参照)あったのにかかわらず、昭和四九年三月一五日、前記足立税務署において、同税務署長に対し、同年分の総所得金額が四九七万七四六四円であり、これに対する所得税額が九一万円である旨の虚偽の所得税確定申告書(前同押号符7)を提出し、そのまま納期限を徒過させ、もって不正の行為により、同年分の正規の所得税額二億〇五一一万九九〇〇円(別紙(三)の税額計算書参照)と右申告税額との差額二億〇四二〇万九九〇〇円を免れたものである。

(証拠の標目) (証拠末尾括孤内の甲、乙は検察官請求証拠目録甲一、乙の番号を、同じく弁は弁護人請求証拠目録の番号を示す。)

判示事実全般につき、

一  被告人の当公判廷における供述

一  第一、九、一〇、一二、一三、一四、一六回各公判調書中の被告人の供述記載部分

一  第九回公判調書中の被告人作成の上申書

一  被告人の検察官に対する各供述調書(乙1ないし6)

一  第一、八、一〇、一一、一五、一六回各公判調書中の荻野の供述記載部分

一  第八回公判調書中の荻野作成の上申書

一  荻野の検察官に対する各供述調書(乙7ないし15)

判示各事実添付の別紙(一)、(二)の各修正損益計算書掲記の各勘定科目別「当期増減金額」欄記載の数額につき(〇数字は別紙(一)、(二)の勘定科目番号を示す。)、

(事業所得)

<売上〈1〉〈1〉・期首棚卸高〈2〉〈2〉・仕入〈3〉〈3〉・外注工賃〈5〉〈4〉・雑費〈6〉〈5〉・期末棚卸高〈7〉〈6〉>

一  被告人作成の昭和五〇年三月一日付上申書(甲1)

一  同じく昭和四九年一二月二四日付上申書(甲5)

一  収税官吏の野口保芳及び竹田拓也に対する各質問てん末書(甲3、18)

一  菅野清治の検察官に対する供述調書(甲19)

一  加藤邦夫の検察官に対する各供述調書(甲20、24)

一  吉野照臣の検察官に対する供述調書(甲21)

一  斉藤龍三郎の検察官に対する各供述調書(甲22、23)

一  植野嚴の検察官に対する供述調書(甲25)

一  青柳福一郎の検察官に対する供述調書(甲26)

一  青柳伊平の検察官に対する供述調書(甲27)

一  熊谷彰夫の検察官に対する供述調書(甲28)

一  竹田拓也の検察官に対する供述調書(甲29)

一  甲斐長治の検察官に対する供述調書(甲30)

一  青木秀雄の検察官に対する供述調書(甲31)

一  田治直康の検察官に対する供述調書(甲32)

一  楠寿美江の検察官に対する供述調書(甲33)

一  広木富作の検察官に対する供述調書(甲34)

一  収税官吏広方敏弘作成の差押てん末書及び現金有価証券等現在高確認書(甲35、52)

一  栃木県総務部長作成の「設立申請書等の写の交付について」と題する書面(財団法人志学館寄付行為の写外添付)(甲51)

一  栃木県総務部長作成の「収支決算書の写の交付について」と題する書面(財団法人志学館の貸借対照表、損益計算書、財産目録等添付)(甲53)

一  三和銀行千住支店長杉浦修作成の昭和五〇年一一月二五日付(二通)、同年三月一〇日付(記録第317号、同第318号)及び同五一年八月一〇日付各証明書(甲54、59、73、74、75)

一  収税官吏木下正一作成の回答書(甲60)

一  横浜地方法務局川崎支局長作成の捜査事項照会回答書(登記簿謄本五通添付)(甲70)

一  横浜地方法務局川崎支局長作成の挿査事項照会回答書(登記簿謄本三通添付)(甲71)

一  東京法務局登記官作成の登記簿謄本(甲72)

一  埼玉県信用金庫杉戸支店長鈴木由也作成の昭和五〇年三月一〇日付各証明書(甲76、77)

一  宇都宮地方法務局登記官坂元登の捜査関係事項照会回答書(甲81)

一  検察官五十嵐紀男作成の捜査関係事項照会書(甲82)

一  宇都宮地方法務局登記官作成の財団法人英学塾志学館登記簿謄本(弁103)

一  第五回公判調書中の証人菅野清治の供述部分

一  第五回公判調書中の証人斉藤龍三郎の供述部分

一  第六回公判調書中の証人竹田拓也の供述部分

一  第六回公判調書中の証人藤野亮二の供述部分

一  第八回公判調書中の証人甲斐長治の供述部分

一  第一三回公判調書中の証人横松和夫の供述部分

一  第一三回公判調書中の証人渡辺宏の供述部分

一  第一三回公判調書中の証人亀井翠吉の供述部分

一  押収してあるメモ帳一册(当庁昭和五〇年押第二一一八号符1)、株式会社東毛スチロール元帳一冊(前同押号(以下同じ)符2)、昭和四八年所得税確定申告書等書類綴一綴(符3)不動産売買契約書等一袋(符4)、昭和四七年度建設及ホテル元帳一册(符5)、通知預金利息計算書等一袋(符6)、所得税青色申告決算書一袋(符10)、往復文書等一袋(符11)、預り証一枚(符12)、荻野寅市の名刺(裏面に念書とあるもの)一枚(符13)、普通預金通帳(財団法人英学塾志学館名義のもの)一册(符14)、永山高男の手帳(昭和四九年度及び同五〇年度のもの)二册、(符15)、荻野寅市の手帳(昭和四七年度及び同四八年度分(二册))三册(符16)、念書等一袋(符17)、土地建物売買契約書、普通預金通帳写等一袋(符18)、禀議書綴(三和銀行千住支店の荻野寅市に関するもの)一綴(符21)、禀議書類(前同銀行の(財)英学塾志学館に関するもの)一袋(符22)、担保書類(前同銀行の荻野寅市に関するもの)一袋(符23)、資金繰表一枚(符24)、決算報告書一袋(符25)、元帳(志学館の48・4~49・3分)一册(符26)、印かん二個(符27)、印かん二個(符28)、印かん(皮ケース入り)一個(符29)、不動産売買契約書一綴(符30)、不動産売買議案書等一綴(符31)、「川崎区貝塚一丁目土地契約関係」と題するファイル一綴(符32)、土地売買契約書写一袋(符33)、計算書等一袋(符34)、総勘定元帳一册(符35)、預り証(金額五三〇万円)一枚(符36)、常陽総合口座通帳(荻野寅市名義)一册(符37)、四九年総勘定元帳一册(符38)、理事会議事録一册(符39)、「債務関係」と題するファイル一綴(符40)、名刺入(身分証明書、名刺等在中)一個(符41)、普通預金通帳(財団法人英学塾志学館斉藤龍三郎名義)一册(符42)、「奇附行為」と題するファイル一綴(符43)

<租税公課>〈8〉〈7〉

一  収税官吏木下正一作成の査察官調書(甲4)

一  収税官吏野見山雅雄作成の昭和五一年七月二四日付回答書(甲55)

<給料賃金(昭和四八年分のみ)>〈18〉

一  収税官吏の井村鼎に対する質問てん末書(甲9)

<利子割引料>〈19〉〈19〉

一  収税官吏公文守作成の「借入金および支払利息明細表」(甲6)

一  荻野作成の「借入金および支払利息について」と題する書面(甲7)

一  収税官吏の斉藤豊作に対する質問てん末書(甲8)

一  収税官吏の永松喜美に対する質問てん末書(甲10)

<手数料>〈20〉〈20〉

一  渡辺末松の取引内容照会に対する回答書(甲11)

一  被告人作成の昭和四九年一二月二四日付上申書(甲5)

一  押収してある往復文書等一綴(前同押号符11)、荻野寅市の手帳(昭和四七年度及び同四八年度分(二册))三册(同押号符16)、預り証(金額五三〇万円)一枚(同押号符36)

<雑収入>〈23〉〈23〉

一  収税官吏の友兼麗子及び竹田拓也に対する各質問てん末書(甲13、18)

一  押収してある計算書等一袋(前同押号符34)

<受取利息>〈24〉〈24〉

一  収税官吏公文守作成の「貸付金および受取利息について」と題する書面(甲12)

<青色申告控除額(昭和四八年分のみ)>〈26〉

一  大蔵事務官小倉健作成の証明書(甲17)

(不動産所得)

<不動産収入>〈1〉〈1〉

一  荻野作成の「不動産収入について」と題する書面(甲2)

<減価償却費>〈2〉〈2〉

一収税官吏野見山雅雄作成の昭和五一年七月二四日付回答書(甲55)

(利子所得)

<預金利息収入(昭和四八年分のみ)>

一  収税官吏野見山雅雄作成の各回答書(甲55、58)

一  三和銀行千住支店長杉浦修作成の昭和五〇年三月一〇日付(記録第314号)証明書(甲57)

一  検察事務官宮前義司作成の「銀行預金の利率について」と題する書面(甲61)

別紙(一)、(二)の各修正損益計算書掲記の各勘定科目別「公表金額」欄記載の数額及び過少申告の事実につき、

一  押収してある昭和四七年分所得税確定申告書一袋(前同押号符8)同じく同四八年所得税確定申告書一袋(前同押号符7)

一  所得税青色申告決算書(四六年ないし四八年)一袋(前同押号符10)

(弁護人の主張に対する判断)

第一本件の争点及び前提となる事実

弁護人は、(一)本件公訴事実第一(荻野の昭和四七年分所得税逋脱)の点について、荻野の確定申告が虚偽過少申告であったことは認めるものの、被告人にはその旨の認識がなく、従って荻野との共同正犯の成立を認めることはできず、被告人は無罪である、(二)同第二(前同四八年分)の点について、荻野の事業所得とされている川崎市川崎区貝塚一丁目所在の土地・建物(以下「川崎物件」という。)の売買益は、志学館に帰属すべきものであるから、それに伴い荻野の逋脱税額も右に対応する分だけ減額さるべきである旨それぞれ主張する。後記第二以下に詳細説示する如く、右各主張は、いずれも採用の限りではないが、その判断の前提となる被告人と荻野ないし志学館との関係の概要は、被告人及び荻野の検察官に対する前掲各供述調書、荻野の上申書(第八回公判調書中の被告人供述に代えたもの)の記載、被告人の上申書(第九回公判調書中の被告人供述に代えたもの)の記載、第五回公判調書中の証人斉藤龍三郎の供述部分によれば、次のとおりである。

(1)  荻野は、群馬県邑楽郡板倉町大字下五箇八五七番地において農業を営んでいたが、昭和三〇年頃、建築業に転業し、併せて旅館業、不動産業にも進出するとともに、昭和四七年頃からは金融業をも兼業していた。

荻野は、昭和四五年頃、志学館に対し資金を融資していたが、志学館が昭和四六年九月頃、資金難のため不渡手形を出したことを契機に、当時、荻野の番頭役として同人の業務に従事しつつ、事業全般に関する経理事務を担当していた被告人を志学館の経理担当理事に送り込むとともに、運営資金として三〇〇〇万円を志学館に貸付け、その後度々融資した結果、同四七年一〇月ころには貸付総額は合計七〇〇〇万円程になった。

(2)  被告人は、日大工学部を中退後、会計事務所に勤務し、昭和三二年ころからは実兄の経営する永山無線株式会社の経理担当取締役となり、昭和四二年八月に、無煙焼却炉の製造販売を目的とする三和商工株式会社を設立して同社の代表取締役に就任したが、昭和四五年七月頃、取引先の不渡倒産のあおりを受けて同社は倒産した。その頃、同社が荻野から融資を受けていたため、被告人は同社の工場、土地を提供して清算したがなお約一五〇〇万円の借入金残があった。その後、被告人は荻野の不動産業を手伝うようになり、更に同人及び同人の実子茂の経営する株式会社東毛スチロール(以下「東毛スチロール」という。)の経理事務、税務関係事務に従事ないし関与するようになった。

荻野の融資先である志学館が、前記のとおり四六年九月頃不渡りを出した後、被告人は荻野から融資先志学館の財政状態の調査を命ぜられ、昭和四七年三月以降は志学館の経理事務にも従事するようになり、さらに同年九月頃からは、右志学館の経理、資金運用面につき、経理担当理事に就任して現在にいたっている。

(3)  志学館は、昭和二八年斉藤龍三郎が個人として設立した英語教育を中心とした進学予備校であったが、昭和三一年三月二九日付にて栃木県知事から学校教育法四条の規定による財団法人として認可を受けた。名称を「財団法人英学塾志学館」と称し、事務所を栃木県宇都宮市日野町四三番地に置き、中学生、高校生に対する英語補修並びに実用英語の普及を図ることを目的として設立されたものである。役員には理事四名(内、理事長一名)及び監事二名を置き、昭和四七年当事の理事は、理事長斉藤龍三郎、理事永山髙雄、同植野嚴、同熊谷彰夫の四名であり、昭和五一年現在の生徒数は約九八〇名、職員数は常勤約二八名、非常勤三〇名を数え、また、年間収入は同五〇年度で約一億〇二〇〇万円である。

第二荻野の昭和四七年分所得税逋脱に関する被告人の共謀の有無

一  弁護人の主張の要旨

弁護人は、被告人には荻野の昭和四七年分の所得税申告が過少であることの認識がなかったのであるから、荻野との間に所得税逋脱に関する共謀があったものとは言えない、すなわち、被告人は、単に荻野の経理事務を処理する立場において同人の指示のままに、呈示される資料と説明を真実と信じて機械的に計数を弾じき、確定申告書の作成に従事したものに過ぎないのであって、その所為を所得税逋脱の共同正犯に問擬することはできないから、被告人は無罪であると主張する。

二  認定できる事実

被告人及び荻野の検察官に対する前掲各供述調書及び同人ら作成の前掲各上申書、第五回公判調書中証人斉藤龍三郎の供述部分、甲19、21ないし23、30、符2、3、5、7ないし9、10、荻野寅市の手帳(実際は、被告人の手帳である。符15)、符16、35を総合すれば、次の事実が認められる。

すなわち、被告人は、昭和四六年夏頃から、荻野の番頭として、不動産の買付及び売渡業務並びに同人の経理及び税務関係事務に従事する傍ら、荻野の実子茂の経営する東毛スチロールの経理、税務関係事務にも関与していたものであるところ、荻野からその処理を一切任されていた同人の昭和四七年分の所得税確定申告に際し、自ら取引の相手方の経理にも関与し、取引内容を熟知していた荻野と志学館及び東毛スチロールとの間における次の四点の取引に関する不正経理処理に基づき申告に及んだものである。

(1) 荻野の志学館に対する校舎・研修寮増改築工事代金一三八六万円の売上除外

弁護人は、この点に関し、当時志学館側の資金不足から荻野としては前渡金三〇〇万円を受領したのみで残金一〇〇〇万円は未収のまま放置されていたものであるところ、昭和四七年二月の契約の時点においては、被告人は、未だ志学館の財産状態を調査して荻野に再建不能の旨を報告する以前であり(右調査が行われたのは昭和四七年三月頃から同年五月にかけてである。)、かつ、志学館理事に就任する六ケ月も前のことであるから、被告人としては、荻野と志学館長斉藤龍三郎との間でなされた合意に関与する余地は全くなかったものであり、従って、荻野から契約書等の資料の呈示を受け、その説明のままに記帳事務を処理したものに過ぎず、申告額が過少であることの認識は全くなかったものであると主張する。しかしながら、甲1によれば、荻野は、昭和四七年七月から九月にかけて志学館から右増改築工事代金の一部三八六万円を受領するとともに、同年九日末日、残代金一〇〇〇万円を貸付金に振替える処理をしたものであることが認められ、同年三月頃から志学館の経理事務にも従事していた被告人としては、遅くとも翌四八年三月の申告期までには、右事情を熟知していたことが明らかである。また、工事代金が一部未収であったことは所論の如くであるとしても、工事が完成し引渡を了している以上、工事代金債権は昭和四七年中に収入すべき金額として権利が確定したものであり、税法上所得が実現されたものとして取扱われることは、長年経理、税務事務を処理して来た被告人としては当然知悉していたものと認めるのが相当であり、仮に然らずとしても、事実関係を認識している以上、税法上同年分の所得に算入されることを知らなかったとしても、法の不知であるに過ぎない。被告人自身、捜査段階において、右未収入分を含め売上金一三八六万円を除外して正しく申告しなかった事実を自認していること(乙3第三項)に徴しても、右認定は裏付けられる。

(2) 荻野と志学館の間における志学館所有の校舎及び土地に関する仮装売買契約を利用した代金一〇五〇万円の架空仕入の計上(昭和四七年一月三〇日付)

右仮装売買契約は、もと志学館に対する他の債権者の追及を回避する目的でなされたものであるが、申告に際し、これを所得秘匿手段として利用したものである。

弁護人は、右仮装売買は、荻野と志学館斉藤館長との間の合意でなされたものであって、その時期も被告人が志学館理事に就任する九か月前であり、被告人は何ら関係しておらず、荻野の説明のままに元帳を作成したものに過ぎない旨主張する。しかしながら被告人は、検察官に対し、荻野と志学館との間に昭和四七年中に一〇五〇万円の土地建物の仕入が計上されていることにつき「これは志学館の校舎と志学館の持っている今市の土地を荻野さんの名義に変更した時に仕入計上したものだと思います。しかしこの土地建物は他の債権者に取られるのを防ぐために便宜上名義を変更したもので真実の仕入ではありません」(乙3第五項)旨供述し、右仕入計上が仮装の売買契約を利用した架空のものであることを自認している。のみならず、右仮装売買契約のなされた経緯は、昭和四六年一二月ころ、荻野が志学館に対して給料その他の支払のため融資した際、他の債権者による差押を免れるため、同館所有の校舎・土地を荻野名義に所有権移転登記をなしたものであるところ、被告人は、斉藤館長が荻野に融資及び校舎・土地の名義変更を申し入れた際、立会っていたことを自認しているのであるから(第九回公判調書中の被告人の上申書)当初から、右仮装売買の経緯を知悉していたことが明らかである。そうだとすれば、被告人は、仮装売買の事実を知りながら、これに見合う架空仕入を計上したものであって、所論は理由なきものと言わざるを得ない。

(3) 荻野の志学館に対する月一分の割合による貸付金利息合計四六三万九六六七円の除外

これに対し、弁護人は、荻野において貸付金の元金のみを元帳に記入し利息の計上をしていないのは、志学館からの利息の入金が皆無であったからである。荻野は、税法上の知識がないので税務会計上の発生主義によって未収の場合でも記入して申告する必要があることは知らなかったので入金がない以上は申告をする必要がないと思っていたのである。被告人は、かような荻野の指示に従って帳簿を作成したに過ぎない旨主張する。しかしながら、荻野自ら志学館からの利息収入を簿外として正しく申告していなかったことを是認している(乙14-2、五項、七項)のみならず、被告人は、前述のとおり税務関係事務に通暁しており、かつ、志学館の経理担当理事として同館の総勘定元帳には荻野からの元利金の未払分をも記入していたのであるから、これに対応する荻野についても、未収利息であっても発生主義(権利確定主義)に基づき受取利息額を計上し、申告すべきことを知っていたものと認めることができる。このことは、被告人の昭和四七年版手帳(符16)に荻野の志学館に対する月一分の割合による昭和四七年分貸付金利息を記帳していることからも明らかである。

(4) 荻野の東毛スチロールに対する池沼売却代金四一六二万五〇〇〇円に対する架空値引一二万五〇〇〇円の計上及び同社からの地代収入四〇万円の金額除外

この点につき、弁護人は、被告人が、確定申告期の直前に東毛スチロールに赴き、同社経理係から呈示される資料を整理し、説明を受けて元帳及び確定申告書を作成したに過ぎず、それが真実に合致しているか否かの調査は行っていないのであるから、東毛スチロール関係の架空値引処理や地代収入の簿外処理については全く知らなかった旨主張する。しかしながら、叙上認定のように被告人は荻野の不動産業務に従事し、併せて経理事務を執りながら、同人の実子茂の経営する東毛スチロールの経理事務にも関与していたものであり、同社と荻野にかかる帳簿の双方を被告人において記帳していたものであるところ、簿外とした取引は、いずれも不動産取引であるうえ、現に東毛スチロール元帳(符3)には、栗橋町の荻野所有の土地(池沼)を何ら値引されることなく、昭和四七年七月八日に四一六二万五〇〇〇円で仕入れた旨の記載及び荻野に対する地代として月三万円ないし五万円を支払った旨の記載が存在するのであるから、荻野と同社との取引内容を熟知していたものと解するのが相当である。

三  結論

右認定事実よりすれば、被告人は荻野の昭和四七年分所得税申告額が虚偽過少であることを十分認識していたことが明らかであるから、これなきものとする弁護人の主張はその前提を欠くものと言わざるを得ない。のみならず右の各事実を総合すれば、被告人が荻野に代って経理事務、税務関係事務をすべて処理しており、荻野の昭和四七年分所得につき、期中における同人の各種取引の内容を逐一承知のうえ、同人と共謀し、収入の除外、圧縮、架空仕入の計上等の所得秘匿行為に積極的に関与し、従って同人の申告額が虚偽過少であることを熟知しながら、ことさらに右虚偽過少額を記載した確定申告書を代理作成し、所轄税務署長に提出したものであることが認められる。

被告人の右所為は、単に納税義務者である荻野の所得税逋脱を容易ならしめたというに止らず、同人と共謀のうえ、犯罪の準備行為である所得秘匿行為及び実行行為である虚偽過少申告行為の全般に亘って関与し、その実行を担当したものと評価すべきであり、刑法六五条一項により共同正犯としての責任を免れない(なお、その責任の範囲は、荻野と共同正犯関係に立つ結果、荻野の昭和四七年分所得税逋脱犯の全般に及ぶものと解すべきである。)。

第三川崎物件の取引主体及びそれに伴う所得秘匿行為の認定

一  川崎物件の概要及び争点

1 川崎物件の概要

前掲各証拠(特に甲70、71各捜査事項照会回答書添付の登記簿謄本)によれば、川崎物件は、川崎市川崎区貝塚一丁目三番所在の土地五筆及びその地上建物四棟であり、宅地五筆面積合計一四五六・〇九平方メートル(以下「土地A、B」という。)は、もと大田区大森七ノ一五〇所在の三洋工業株式会社(以下「三洋工業」という。)が所有していたものであり、同地上には鉄筋コンクリート五階建の建物一棟(一階の大部分を占める貸店舗三三五・〇一平方メートル(以下「建物C2」という。)は中電商事株式会社(以下「中電商事」という。)の所有、一階の一部及び二、三、四、五階は共同住居一一三二・〇四平方メートルでゼネラル交易株式会社(以下「ゼネラル交易」という。)の所有(以下「建物C1」という。))、同じく鉄筋コンクリート五階建事務所兼居宅兼工場一棟(一〇三七・八九平方メートルで三洋工業の所有(以下「建物D」という。))、及び鉄筋コンクリート一階建事務所一棟(三一五・二七平方メートルで菅野清治の所有(以下「建物E」という。))、コンクリートブロック造平家建変電所一戸(八・九六平方メートルで中電商事の所有(以下「建物F」という。))が存在していたことが認められる。

2 争点

右川崎物件の土地、建物が、いずれも昭和四八年二月二八日付(土地A、B、建物C1、D)ないし同年四月五日付(建物C2、E、F)の各売買契約書によって、志学館に買収され、同年三月二〇日付の売買契約書によって志学館から株式会社長谷川工務店(以下「長谷川工務店」という。)に一括売却された外観を示す各売買取引について、検察官において、志学館は単なる契約書上の名義人に過ぎず、実際は荻野の売買取引であるとしてその売買益を荻野の昭和四八年分所得に帰属させるべきである旨主張するのに対して、弁護人は志学館こそ実質的な本件各売買取引の当事者であり、その売買益も志学館に帰属する旨主張して、川崎物件の取引主体がいずれであるかが当事者間において争われているのである。

一  実質所得者課税の原則と虚偽仮装取引との関係

本件は、後記認定のとおり被告人が荻野と共謀のうえ、真実は荻野個人の取引であるのに租税負担を免れる目的で単に志学館の名義を利用したに過ぎず、その外形に符合させるために事実を偽り仮装の行為を行ったもので、右仮装行為は所得税逋脱のための所得秘匿行為を構成することになる。

右のいかなる仮装行為がなされたかは事実認定の問題に帰するところ、検察官は、所得税法一二条の「実質所得者課税の原則」を根拠として、本件売買益の帰属者は荻野であると主張している。

しかしながら、仮装行為による取引行為は、その法律行為が真に有効な法律効果の発生を期待してなされたものではなく、他の真実の法律行為を仮装するためになされたものであって、そこに事実を偽り虚構することになるため、私法上は無効であるから、かかる取引行為によっては権利変動をきたすことはない。従って、法律上の帰属と事実上の帰属(経済的帰属)とが異なることとなる場合は存しないから、右のような両者に違いが生ずる場合に適用さるべき税法上の「実質所得者課税の原則」は、仮装による取引行為によって生じた帰属関係の判定については考慮する必要はないといわなければならず本件はまさに租税逋脱のために事実を虚構した仮装行為が存在したか否かの事実の存否を認定すれば足りるものであって、仮装行為認定の問題と「実質所得者課税の原則」の適用とは両者その本質を異にする問題である。

三  被告人及び荻野において川崎物件につき、志学館名義に藉口して取引をしようと決意するに至った経緯並びに検察官調書の任意性・信憑性

1 取引仮装を決意するに至った経緯

乙5、6、9、10、13、15、甲32、22、13によれば、次の事実が認められる。

荻野は、志学館に対して多額の貸付をなし、その債権確保の意味もあって、被告人を志学館に経理担当役員として送り込んでいたところ、被告人は、志学館が経理面において資金不足で困窮していたために、更に荻野からの資金融資が必要と考えたが、一般に個人事業所得よりも法人の取引による所得の方が租税負担が軽減されることを知悉していたので、荻野に対し川崎物件の売買取引にあたって、右物件を志学館という財団法人の名義で取引をしてはどうかという考えを話した(被告人は、この点について「正直に荻野さんの名前で取引を進め荻野さんの利益であることを明らかにしたうえ、荻野さんの所得税を納めた後、荻野さんに税引後の利益を志学館に使わせてもらうというのが正しいやり方であったのでしょう。(中略)。そこで正直に申告すれば利益の大半は税金でもっていかれる、志学館ということでやれば税金ははるかに少くてすむ、だから税引き後の利益は大きくなるからそれを志学館の方にも回してほしいということで荻野さんに相談したのです。荻野さんは税金が安くなるということでこの話にのってきました。その時の私の腹づもりでは、私としても荻野さんの脱税の手伝いをするようなことになる以上、税金を納めた後の利益は相当程度は志学館の方で使うことを認めてもらえると考えていました。」(乙5第五項)とこの間の動機を検察官に卒直に述べているのである。)。

なお、財団法人の取引は、それが継続的な収益事業でない限り、非課税とされるが(法人税法七条)昭和四七年当時被告人がそのことを知らなかった事実については、被告人の「志学館名義の取引を考えた頃は、まだ税が全くかからないとまでは考えておらず、二三%位の税率で税金はかかってくるものと考えていました。

しかし、それにしても個人で取引をする場合に比べれば、はるかに税金は安くなるのであり、荻野さんにもそのことを説明して荻野さんもそれで話に乗ってきたのです。」(乙5第一項)旨の供述から明らかである。

被告人は、今後の志学館に対する追加融資に難色を示している荻野に対し、志学館名義を利用させれば税負担が著しく軽減されることになるから再融資に応じてくれるものと考えていた(「荻野さんもこの取引を志学館名義でやることを承知してくれた時には、志学館にも相当な金を出すという口ぶりで私としても金を全然出してくれないのであればこんなことは最初からやりません」旨の供述(前掲乙5第二項)。なお、この点については荻野自身も、「永山は『志学館は公益法人だから普通の会社よりも税金はずっと少なくてすむ、志学館として売買すれば、税金もずっと安くなるから利益が沢山残る。そうすれば荻野さんから借りている金も返せるし、余った分を志学館で使わせてもらうこともできる……荻野さんも今迄つぎ込んだ金も取引がうまくいけば回収できることになる。税金も安くなるし、荻野さんも志学館も儲かるんだから、ひとつ志学館だということでやらしてもらえないだろうか』というような話をした」(乙13第一項)と供述し符節している。)。

荻野は、右永山の申出に対し税負担が軽減されるということからこの話に乗って来た(「あの物件はずっと私が手掛けてきたので、永山は番頭として今までやってきたのであり、これからも金の面などの陣立ては私がやるのですから、名前だけの志学館ということにしてそんなにうまくいくかどうか心配でしたので永山に『税金の方は本当に安くなるのかい』と聞いたら永山は志学館の名前で取引すれば志学館として税金を払うことになるのだから安くなる。その点は自分に任せてくれといっておりましたのでこの話に乗ることとしました」旨の供述(乙13第一項)。)。

そこで被告人と荻野は志学館の名義に藉口して取引しようと決めたものであるが、右事実は両名の次の供述によって窺知できる。すなわち、荻野の「川崎の物件は名義は志学館で取引はしたのですが、実際は私と永山とが苦労して物件をまとめ、それを長谷川工務店に売ったのです。ですから私としてはそこから出てくる利益を一銭だって出したわけでもない志学館にまるまる使わせるつもりはなく、永山もそのことはよく承知しておりました。私の腹づもりでは利益の内から私が志学館に貸してある七、〇〇〇万円とその未払利息分、それから三洋工業の土地を志学館に一億円で売ったことにしたのですが、それでは到底元はとれないので、少くとも元がとれる位の金などを貰い、志学館に税金がかかるとすればその分を引いて残った分について話し合いで志学館が自由に使える金はこれだけというふうに決めるつもりでした」(乙15第三項)、「私は税金を払った後で志学館にいくら使わせるかキチッときめるつもりでいました。ところがその前に査察が入ってしまいそういうことも決められないままズルズルと引きずられて今日まできてしまったのです」(乙15第一項)旨の供述、被告人の「志学館の名前で取引を進めることとしたのですが、取引の実態はすべて荻野さんが最終決断を下しております。」(乙5第二項)、「志学館であればこそ税金も安い税金ですむのに、ここで三洋工業即ち荻野が売主として名前を出すことになれば、いくら志学館の取引であると云ってみたところでそんな嘘はすぐバレてしまうからです」(乙5第三項)、「このように建物の買取り、土地建物の売却、契約書は志学館の名前でやることができました。……取引の本当の主体は荻野さんであり、契約上の名義人を志学館としたのは、この取引を志学館の取引であるように見せ税金の負担を軽くしようとしたためです」(乙5第四項)、「売買取引だけを志学館の名前でやったのでは資金面の方から真相が判ることとなるので借入れも志学館の借入れとしたのです、売上代金を志学館名義の預金としたのも同じ理由です」(乙5第四項)旨の各供述は、その間の事情を吐露したものと言える。両名のこれらの供述は、川崎物件に先がけて昭和四七年一二月ころ、被告人らが志学館名義で荻野所有の茨城県古河市中田所在の土地を売却しようと企てた相手方たる関東開発株式会社代表取締役友兼麗子の、登記簿上所有者が荻野となっているのに、荻野から売主の名義を志学館にしてくれと言われたので理由を尋ねたところ、荻野から財団法人名義にすると税金が安くなるから名義を志学館にしてくれと言われた旨の供述(甲13)、昭和四六年秋ころ志学館に融資していた田治直康が被告人及び荻野らと面談した際、荻野は「私にとっては、学校よりも金が欲しいのだが学校なんて俺にとっては非課税団体であるというメリットしかない。私は現在理事でも何でもないが実質的にはオーナーであるので、もし、あなたが欲しいのなら財団法人名義の空の領収書を発行してあげるからいくらでも経費でおとせますよ」と志学館は税金を安くすること位しか利用価値がないと本気で話し、財団法人というものを税金対策上、利用しなければ損だという態度をはっきり示した旨の田治の供述(甲32)、ゼネラル交易総務部長加藤邦夫の昭和四八年二月二八日建物売買契約締結の際、突然被告人らが買主を志学館名義にしてくれと言い出し、その席で被告人が加藤に学校の名前を使った方が税金上有利になるという意味の言葉を話した旨の供述(甲24)、長谷川工務店不動産部竹田拓也の仲介に入った甲斐から税金のことも含めた諸事情により被告人らから売主を学校名義にしてくれと言われていると聞いた旨の供述(甲29)等によって裏付けられている。

以上によれば、本件取引の主体は荻野であって、志学館の名義を用いているのは、単にこれに藉口したに過ぎなかったものであることが明らかである。

2 検察官調書の任意性、信憑性に対する主張についての判断

なお、被告人、弁護人は、右引用部分も含めて被告人及び荻野に対する供述調書の記載は、取調べにあたった検察官が勝手に作りあげたもので、いくら内容が違うといっても聞いてくれず、半ばおどされたと申立て右検察官の供述調書の信憑性ないし任意性を争っているので、この際所論に鑑み検討するに、各調書の内容は殆んど理路整然とし本人でなければ供述できないような箇所(例えば具体的な被告人と荻野間の会話部分など)が随所にみられるのみならず、たとえば、被告人の昭和五〇年一一月一二日付検察官に対する供述調書(乙1)第三項如きをみれば、「以上、録取して読み聞かせたところ『一ケ所訂正して下さい、只今、読まれた調書では私が志学館を調査した結果、再建できそうだと自分で判断したように読めますが、そうではなく、私自身は調査の結果、再建は無理だと思ったのです』」旨の記載が認められ、更には川崎物件の仮装取引を認めた後の調書においても動機、弁解の詳細な陳述等が見受けられ、それらは明らかに自ら進んで供述したことが認められ、また、各調書にはいずれも調書の読み聞けを受けたうえ署名指印していることからも任意性は充分認められる。そうだとすれば、その供述内容は、昭和四九年五月の国税当局による査察着手以来、被告人及び荻野において一貫して否認してきた事項につき、従前の主張を飜えして事実関係を肯認するものであって、その結果直ちに自己に不利益を及ぼすことが明らかであり、かつ被告人らもそのことを知悉しつつ、供述に及んだものであることが認められることをも勘案すれば十分信用し得るものと解するのが相当である。のみならず、被告人らの右の如き供述態度は、任意かつ真摯になされたことが明らかな昭和五〇年一二月二三日の本件第一回公判期日における被告人の意見陳述に際しても維持されていたことをも併せ考慮すれば、所論は理由なきことが明らかである。もっとも、被告人、弁護人は、この点についても、被告人らは冒頭手続を保釈の手続と誤解していたもので、川崎物件の売買益が荻野に帰属することを真実認めた趣旨ではない旨弁解するが、荻野の昭和五一年三月一五日付上申書によれば「真子弁護士が面会にきた折……起訴された事実について認めれば保釈になるが、そうでないと保釈になるかどうかわからないと言われ」た(第九項)とあり、被告人の昭和五一年三月一六日上申書にも同旨の記載が認められる(第八項)ところからみれば、被告人らは、少なくとも起訴事実につき自認する陳述をしようとする意思をもって陳述したことが認められる。しかも第一回公判調書によれば、被告人らは「荻野の所得税を免れようと企て、共謀のうえ、実際は荻野において行った不動産売買を財団法人志学館の取引行為であるかのように仮装する等の方法により所得を秘匿した」旨の本件公訴事実の朗読がなされた後に、事件に対する陳述として荻野は「公訴事実のうち、第一についてはいずれも脱税したことは間違いありませんが、経費はもっとかかっております。第二については、そのとおり間違いありません。期間も短かかったし、金額もそう多くはなかったので所定の届出をしなかったのです」旨、被告人も「事実はそのとおり間違いありませんが、私は初めから脱税を企てていたわけではなく、結果的にそうなってしまったのです」とそれぞれ陳述しており、その内容は、川崎物件の取引主体等公訴事実の大要は認めながら、他方簿外経費の上積みを主張したり、脱税の犯意を否認するなど具体性に富むものであって、ことに荻野については、刑事裁判の経験もあること(乙18)をも勘案すれば、到底右弁解を容れることはできない。

四  川崎物件にかかる売買取引の経緯

1 荻野が三洋工業から土地A、B及び建物Dを買取った経緯

甲19、20、21、30、29、18、第五回公判調書中の証人菅野清治の供述部分、第六回公判調書中の証人竹田拓也の供述部分、第八回公判調書中の証人甲斐長治の供述部分、乙5、6、8、10、13、被告人及び荻野作成の前掲上申書の記載、甲72、符4、15、16、17等によれば、次の事実を認めることができる。

川崎物件中、土地A、B及び建物Dは、もと大田区大森七ノ一五〇所在の三洋工業(当時の代表取締役西川勝夫)の所有であったが、荻野は、昭和四四年九月頃、これらの不動産を担保として三洋工業に対し二回にわたり計三五〇〇万円を貸付けていた。その後同社は、右借入金の返済ができないうちに代表取締役は広田実と交代したが、西川はその返済に苦慮した挙句、昭和四六年逆に右借入金相当分のほかに六〇〇〇万円を追加した金額で同社ごと右土地建物を買取って欲しい旨荻野に申し出た。

これを受けて荻野は、被告人に命じて、右西川及び広田と交渉させた結果、昭和四六年七月三〇日頃、前記金員の外、登記料その他の費用三五万円の合計九五三五万円で三洋工業ごと本件土地A、B及び建物Dを取得する旨約定を結び同年一二月ころまでに右金員を追加支出して右土地、建物を取得した。

なお、昭和四七年八月ころ、荻野は右会社の代表取締役に就任し、被告人も同社の取締役となり、いずれも登記を了した。

ところで、荻野は、前記申出を受けたころから、三洋工業所有の土地A、B、建物Dを取得したのみでは、同土地上に前述の如く所有者の異るその余の建物C1、C2、E及びFが存在するところから、これらの物件をすべて買収して川崎物件の所有関係を一本化しないことには右土地の取引価値がないと考え、自らの手で整理したうえでこれを他に転売しようと企てた。そこで、同人は、引続き残存建物C1、C2、E及びFをも取得するため昭和四六年夏ころから被告人を使って右各建物の所有者等と売買交渉を開始した。

2 建物C2、F及びEを中電商事、菅野清治から取得した経緯

甲19、21、乙5、10、13、第五回公判調書中の証人菅野清治の供述部分、符16、17等によれば、次の事実が認められる。

荻野は、被告人あるいは従前から菅野清治と親交のあった平和商事の吉野照臣を仲介者として、中電商事、菅野清治と売買交渉をなし、昭和四六年一〇月一六日ころ、建物C2、E、Fを合わせて六四〇〇万円で売却する旨の一応の承諾を得てその承諾書(符17)を徴したが、同建物に居住する借家人に対し支払う立退料につき合意が得られなかったため、右六四〇〇万円の金額による売買契約の締結までにはいたらなかった。荻野はその後も、被告人を使い、あるいは自らも、右菅野と直接若しくは右吉野を仲介として交渉を続け、昭和四八年二月二四日ころ、菅野から同人と中電商事連名の荻野宛の売却承諾書を徴した。

他方同年二月頃、荻野は被告人から、被告人が理事をしていた志学館が公益法人であるから、志学館の名義で売買すれば税の負担を軽減されるので売却利益が余計に手元に残るから志学館名義で売買してはどうかとの申出を受け、前年一二月頃にも荻野所有の古河市中田所在の土地を志学館名義で売却しようとした経緯もあることから、これに承諾した。そこで真実は志学館が取得するのではないにもかかわらず、税の負担を違法に軽減させる目的を以て買主の名義を志学館とすることを決意した。そして、昭和四八年三月三日頃、同所に学校を建てるからという口実を用いて買主の名義をいずれも志学館とすることを申し出、その旨菅野の承諾を得たうえで、売買金額を建物C2、同Fについては四二五〇万円、建物Eについては四五〇〇万円とし、それぞれ契約時には手付金として一〇〇〇万円を支払い、残代金は同年五月末日に建物の明渡しと引換えに支払う旨の売買契約を締結した。

なお建物C2、同Fについては右菅野から中電商事の決算期が三月末日であったことから翌期の売上としたい旨要求があったので契約の日付を同年四月五日付とし、右売買金額及びその支払方法については荻野が直接菅野と交渉して決定し、右手付金合計二〇〇〇万円も荻野の取引銀行である三和銀行千住支店から同人の信用で借入れして支払い済であったところ、右菅野において、本件建物を含めた川崎物件が高価格で他に転売されて大きな利益を得るらしいとの噂を聞知し、未だ残代金の支払のないところから、建物Eについて売買金額のつり上げを企て、同年六月二日付で、右契約を解除する旨を名目上の志学館にあて通告した。

そこで荻野は、被告人をして、志学館の斉藤館長を同行させて恰も財団法人としての志学館が買取るが如く装わせ、交渉の結果六月一二日、両者の間で建物Eにつき売買代金を六五〇〇万円に増額することで合意が成立した。右の売買代金残金五五〇〇万円と中電商事に対する建物C2、同Fの残代金三二五〇万円をあわせた八七五〇万円のうち、三〇〇万円は同月一三日ころ支払われ、残り八四五〇万円は荻野が同人名義で三和銀行千住支店から借入れたうえ、同月二〇日と二九日の二回にわたって中電商事と菅野に支払った。

3 建物C1をゼネラル交易から取得した経緯

甲20、24、乙10、12、13、5、6、符4、16、17によれば次の事実が認められる。

荻野は、昭和四六年頃から被告人を介し、建物C1の所有者であるゼネラル交易の代表取締役斉田幸雄、総務部長加藤邦夫と建物C1の売買交渉をなした結果同社との間に昭和四六年一一月一九日を以て代金五五〇〇万円、居住者の明渡期限を同年末とする内容の売買契約を締結し、同社に対し手付金二〇〇〇万円を支払った。しかし、同建物に居住する借家人の立退きに手間どったのみならず、却って借家人から不当に高い立退料の支払を要求されたのは荻野側にその原因があるとして、ゼネラル交易から右契約を破棄する旨の通告を受けたりして、契約内容の実現が遅延した。

その後も荻野は、右売買契約を履行させるべく被告人を介し、または自ら前記斉田、加藤と交渉を続行した。

昭和四八年二月頃に至り、前示のとおり、荻野は、被告人から志学館名義で売買することによる税の負担の軽減の申出をうけ、真実志学館が右建物を取得する意思がないのにそのように装って志学館名義で取得しようと決意した。

そこで、荻野は改めて同月二八日、ゼネラル交易との間に、売買金額を六九〇〇万円に増額し、手付金は既に昭和四六年の売買契約に際し交付ずみの手付金二〇〇〇万円を以て充当することとし、残金は現金三〇〇〇万円と額面一九〇〇万円の約束手形で支払う旨の契約を締結した。その際荻野及び被告人の両名は、ゼネラル交易に対し買主の名義を荻野でなく志学館とするように申し入れたところ、右斉田らは、荻野において既に売買代金を用意しており、確実に代金の支払を受け得るのであれば、名義の如何は問う必要がないものと判断して右申入れを了承し、買主の名義を志学館とする売買契約書を作成した。右契約書の売買金額は斉田らの申出に従って一〇〇〇万円を裏取引とし、表向きは五九〇〇万円としたが、その際、荻野は、従前の交渉経緯に鑑み、契約の履行を確保すべく、登記に必要な書類を整え、或いは、書類の不備を補完させるための同人宛の念書を作成し斉田に署名押印させた。

4 土地A・B及び建物Dについての荻野と志学館との仮装売買取引の経緯

乙5、6、9、10、13、15、甲22、第五回公判調書中の証人斉藤龍三郎の供述部分、符18、38、16によれば、次の事実が認められる。

昭和四八年二月頃、被告人は、荻野に対し、被告人が理事をしている志学館が資金不足で困窮しているので、さきに荻野が三洋工業から買取った土地と建物を形式上志学館に譲渡したことにし、同館所有としたうえで、これを他に転売すれば、公益法人の譲渡行為として税の負担が軽減されるから、その利益金の一部を融資して貰いたい旨申し出た。荻野は右申出を了承し、真実は志学館に右土地、建物を譲渡する意思がないのにかかわらず、形式上志学館との間に仮装の売買契約を締結することとし、各取引の成立した段階で遡って昭和四八年二月二八日付で右土地建物を志学館に一億円で売却した旨の売買契約書を作成した。そして公表帳簿上では、右売買契約が同年三月二八日に行なわれたとして売買差益四六五万円を計上した。

5 長谷川工務店との売買契約に至る経緯

甲29、30、乙9、10、12、5、甲18、第六回公判調書中の証人竹田拓也の供述部分、第八回公判調書中の証人甲斐長治の供述部分、符4、13、16、30、31、32、41によれば、次の事実が認められる。

荻野は、昭和四七年一一月頃、旭和興産株式会社(以下「旭和興産」という。)専務取締役甲斐長治に対し、川崎物件の売却あっせん方を依頼したうえ、昭和四八年一月一二日ころ、本件土地価格を坪当り一一〇万円(合計四億八四五〇万六〇〇〇円)で売却する旨の売渡承諾書を交付し、右旭和興産では、その頃、長谷川工務店に話を持ち込み、同月二五日付川崎物件の物件説明書を交付した。同年二月二三日頃、荻野は台東区下谷の「タカラホテル」において、被告人、甲斐とともに、長谷川工務店不動産部竹田拓也と会談し、同工務店から坪当り一一〇万円で買受けたい旨の申入れを受けた。

しかし、当時、同建物に居住している借家人の立退問題が未解決であったため、売買契約の成立にいたらなかった。

その後被告人及び荻野は、数回に亘り右竹田と売買交渉を重ねたが、その際、同人に対し、借家人に対する立退要求は、表向きの理由を川崎物件は志学館が取得して校舎を建設するということで説明しているので、実際は長谷川工務店に転売する話を進めていることは極秘にして欲しい旨の申出をした。また売買金額については、荻野が坪当り一四〇万円を提示したのに対し、長谷川工務店側では坪当り一二〇万円まで譲歩し、同年三月六日頃、右甲斐が被告人に対し仲介手数料の半分を交付するので荻野を説得して契約の成立に協力願いたいと申し向けた末、同月一〇日頃、被告人、竹田、甲斐の三者協議により坪当り一二三万五〇〇〇円とすることで話し合いがつき、被告人及び甲斐の両名において極力荻野を説得した結果、同月一八日頃、荻野も右金額を了承した。同月二〇日頃、渋谷区道玄坂の長谷川工務店の事務所に被告人、荻野、甲斐、竹田らが集まり、荻野と長谷川工務店との間に川崎物件を土地(四四〇・四六坪)価格坪当り一二三万五〇〇〇円、合計五億四三九六万八一〇〇円で長谷川工務店に売却する旨の契約が成立し、その旨の契約書を取交した。

ただ、売主の名義をめぐり、長谷川工務店では、売買契約書上の売主を登記名義人である三洋工業(土地につき)及び志学館(建物につき)の両者として作成準備していたところ、被告人及び荻野はそれでは志学館名義に仮装する意図が達成されないため売主の名義をあくまで志学館のみとするよう要求した。結局、売主の名義を志学館のみとするかわり三洋工業は売主の連帯責任者として本件売買契約の履行に責任を負う旨の特約条項を設けることで結着がついた。

右約旨に従い、同年三月二〇日ころ内金一億五〇〇〇万円、同年七月二日残金三億九三九六万八〇〇〇円が、長谷川工務店から三和銀行千住支店の志学館名義の普通預金口座に、それぞれ入金された。

そして建物D、同C1、同C2、同F及び同Eは長谷川工務店に所有権移転登記を了した後、同四八年一二月一一日取壊された。

五  虚偽仮装取引の認定

1 総説

以上認定した事実に照らせば、本件取引は被告人と荻野が共謀のうえ、荻野の所得税を逋脱する目的で志学館名義に藉口したに過ぎず、右は虚偽の仮装取引であって、真実は荻野によってなされた取引であると認めるのが相当である。けだし右取引は荻野の収支計算の下に行なわれたと認められるからであり、具体的にいえば(一)本件売買契約の重要な事項の意思決定は荻野によって行われたものであること、(二)基本となる川崎物件の土地A、B及び建物Dを志学館に譲渡した行為自体が仮装行為であって、実際は志学館に譲渡されていなかった事実が認められること、(三)外形的に表現されている志学館も法人として川崎物件の購入及び売却につき何らの意思決定をしていないこと、(四)右土地建物を購入する資金が荻野から出されていること、(五)長谷川工務店に売却された代金が荻野において管理され、自己の利益のために運用されていること等よりすれば、本件取引は荻野によってなされたものであって、志学館という名義上の存在は全く仮装のものであると認定できるからである。

しかしながら弁護人は、本件取引が真実志学館によってなされたものであるとして、右の諸事項につき逐一反論しているので、以下所論に鑑み各事項につき判断を示す。

2 売買契約の重要事項の意思決定者

(一) およそ当該取引において何人が取引の主体であるかは、単なる書面上の形式及びその名義如何によってではなく、何人が売買契約の意思決定をなし得るか(具体的にいえば、売買金額、代金授受の方法、物権引渡授受の時期等、当該売買契約の重要事項の決定は何人が行なうのか)を確定することによって、これを認定するのが相当である。

これを本件についてみるに、(イ)建物C1(ゼネラル交易)については、さきに認定した如く、昭和四八年二月二八日、ゼネラル交易事務所において、荻野が被告人と共にゼネラル交易の斉田、加藤と話し合い、売買金額を六九〇〇万円とし、内二〇〇〇万円は既に昭和四六年に手付金として交付した二〇〇〇万円をもってこれに充当し、残金は現金三〇〇〇万円と額面一九〇〇万円の約束手形で支払うことで合意が成立したこと、右売買金額及びその支払方法は、荻野が直接斉田等と交渉して決定し、右現金三〇〇〇万円も荻野が準備し、かつ、額面一九〇〇万円の約束手形も同人名義で振出したこと、また、同建物に他の債権者から根抵当権が設定されていたので、荻野は右斉田において右権利を抹消させることを誓約させる意味で「念書」(符17)を作成し右斉田に署名させた経緯が存在する。

次に(ロ)建物C2、同F、同E(中電商事、菅野清治)についてみるに、甲19、21、第五回公判調書中の証人菅野清治の供述部分、符16、17、乙5、10、13によれば、荻野は、平和商事の吉野照臣を仲介者として交渉にあたり、一旦は昭和四六年一〇月一六日付で建物C2、同E、同Fを合せて六四〇〇万円で売却する旨の承諾書を徴したが、居住者の立退問題で難航したため売買契約締結に至らず、その後昭和四八年二月二四日頃、菅野から同人と中電商事連名の荻野宛の売却承諾書(符17)を徴した。さらに三月三日頃、荻野は被告人と共に中電商事事務所を訪れ、右吉野を交え菅野と売買金額の交渉をし、売買金額については建物C2、同Fにつき四二五〇万円、同Eにつき四五〇〇万円とし、契約時に一〇〇〇万円を支払い、残代金は五月末日建物明渡しと引換えに支払うとの合意が成立し売買契約書が作成された。売買金額及びその支払方法は、荻野が直接菅野と交渉して決定した。その後、荻野からの残代金支払が遅れ、菅野が売買金額を増額しようとして契約解除を通知したため、結局、建物Eの売買金額を二〇〇〇万円上積みして六五〇〇万円とすることで合意が成立した。そこで売買代金の残金は、荻野が同人名義で三和銀行千住支店から借入れするなどして調達し、同年六月二〇日と二九日の二回にわたって中電商事と菅野に支払った事実が認められる。

更に(ハ)長谷川工務店との売買契約については、甲29、30、16、第六回公判調書中の証人竹田拓也の供述部分、第八回公判調書中の証人甲斐長治の供述部分、乙5、9、10、12及び符16、41によれば、前示のとおり荻野が昭和四七年一一月頃、旭和興産株式会社の甲斐専務に川崎物件の土地建物の売却を依頼し、翌四八年一月中旬、同人に対し本件物件を土地価格として坪当り一一〇万円で売却することを承諾する旨の売渡承諾書を交付したこと、右旭和興産は長谷川工務店にこの話を持ち込み、長谷川工務店は本件物件を購入することを決め、竹田は荻野に対し坪当り一一〇万円で買付けの申入れをしたこと、地上建物居住者が明渡問題で解決していないため結論が出なかったこと、その後、竹田は金額の引上げを申し入れ、売買金額について荻野は坪当り一四〇万円と提示し、長谷川工務店は坪当り一二〇万円まで譲歩し、三月六日、甲斐は被告人に対し、仲介手数料の半分を交付するので荻野を説得して長谷川工務店との契約を成立させるよう協力方を申入れ、三月一〇日頃、被告人甲斐、竹田と話し合った結果、坪当り一二三万五〇〇〇円とすることとし、被告人と甲斐の両名が荻野を説得した結果、同月一八日頃、荻野も右金額で売渡すことを承諾し、甲斐に対し仲介料一一〇〇万円を支払うことを約束し、三月二〇日頃、長谷川工務店事務所において荻野、被告人、甲斐、竹田が集まり川崎物件の土地A、B及び建物C、同D、同E、同Fを合計五億四三九六万八一〇〇円で長谷川工務店に売却する売買契約書を取交わした各事実が認められる。

以上によれば、荻野は本件各売買取引の基本的契約締結の場にはすべて立会い、その売買金額、支払方法を決定しているのであって、本件取引の重要事項の決定権はすべて同人の手に留保され、同人において直接決定していることが明らかである。

(二) これに対し弁護人は本件取引はすべて被告人が志学館の代理人として取りしきったものであって、荻野は、この取引には一切関係していない旨主張する。

被告人が志学館の理事であること、売買の交渉に当り、絶えず被告人が立会していること、売買契約書には志学館が売買の当事者として記載されていること、志学館の理事長斉藤龍三郎は、菅野清治からの売買契約解除の通知が志学館に対しなされたことで、被告人を同道して菅野と面会し、その席上で、同人に対し、取引については被告人に一切任せているというような態度をとっていたこと(甲19)、荻野は、藤野亮二税理士に対し異議申立ての当初から本件取引は志学館が取引の主体であると一貫し申立てていること(第六回公判調書中の証人藤野亮二の供述部分、甲20カセットテープの内容)等のみからみれば、弁護人の主張も一見理由あるかの如くであるが、しかしながら、志学館の理事会において本件取引につき議題にのぼったことのないこと(甲25、28)、川崎物件の整理終了後、荻野は被告人に謝礼金を与えていること(乙2、10、符12、16)、本件売買代金を以って設定した志学館名義の預金が荻野に帰属することを斉藤理事長に誓約書をもって確認させたこと(乙5、9、13甲22、23及び符11中の誓約書)、特に右誓約書は、斉藤龍三郎、斉藤カヨの連名で荻野に宛てたものであって同書面中の「金六阡弐百八拾参万円の金額につき志学館の運転資金として利用させること(第一項)、本件に関しては荻野寅市、永山髙雄、斉藤龍三郎参名のみの話として他のいかなる人に対しても絶対秘密とする(第二項)。本件の経理操作担当は永山髙雄とし、飽くまで裏操作によって処理する。監査は荻野寅市が行う(第三項)。志学館名義の預金と金額の銀行利子は荻野寅市の収入とする(第七項)」旨の記載とを対比して考えれば、被告人が仮に志学館の理事の肩書を以て契約に立会していたとしても、直ちに被告人において志学館の行為を代理して行ったと認定することは甚だ困難であるし、また斉藤理事長の前記行動についても、資金のいわゆるスポンサーとしての荻野の命ずるままに行動したに過ぎないと解され、藤野税理士の供述も、本件査察後に専ら被告人及び荻野からだけ事情を聴取したにとどまり、また、主に志学館の決算書に利益を計上している(ちなみにこの決算書は、東京国税局による査察開始後に被告人が作成したものに過ぎない。)ことから志学館の取引であるというにあって、本件関係者の大部分の調査がなされていないことからも、その判断にはにわかに同調できない。また第三者となった荻野が売買契約交渉、締結の主要な場に立会し、斉田からの念書徴収、甲斐の手数料額決定等主体的に行動していることも所論からすれば極めて不合理である。

要は、帳簿に記載があるから所得があるのではなくして、何人が所得を生ぜしむる行為をしたかが問題なのである。

却って、本件取引に関与した関係者は、いずれも本件取引の当事者は荻野であると思うと供述しているのである。すなわち、菅野清治(甲19)は「私は荻野さんが売主と思っていた」と供述し、吉野照臣(甲21)は「契約当日になって志学館の名前を持ち出したことや、志学館の斉藤理事長始め他の理事の方が挨拶にもこないということは、結局、買主は荻野寅市個人であるのに単に名義だけを志学館の名前にしたと私は思っております」と供述しており、加藤邦夫(甲24)は「買主は荻野さんであり、単に名義上学校の名前を使ったに過ぎません。」と供述し、竹田拓也(甲29)も「売主は、三洋なり志学館を名義に出して、そのバックに控えている荻野さんが売主である」と供述し、第五回公判調書中の証人菅野清治の供述によれば、買主は荻野とみていた旨の供述が存在する。また、ゼネラル交易との取引に関与した司法書士深瀬茂は「ゼネラル交易株式会社所有物件の買主荻野寅市殿」と書面を作成しており、(符17)、その文言の体裁及び同人の立場からみても弁護人の言うような単なる誤記とは解されない。

また、川崎物件の土地、建物を購入した長谷川工務店も、相手側が志学館の名前を持ち出しているのは、本件土地、建物の借家人、居住者に対する明渡しを求めるため、その明渡し請求の正当性を主張する理由として学校を建てるからといって志学館の名を用いているのであり、従って、第三者への売却は極秘にしてくれと依頼してきているものと考え……「三洋工業、荻野寅市、志学館は一体であるから、これは先方サイドの単に処理上の問題である」とみており(符32中のメモ)、これはまさに正鵠を射ているといえよう。

更に、各売買交渉の過程において、被告人ないし荻野から志学館が荻野に代わって取引当事者となる旨を明示し、以後交渉が全く新たに開始され、あるいは被告人以外の志学館関係者が交渉に加わったものではなく、いずれも荻野との売買契約締結につき合意に達した段階である契約当日もしくはその直前になって、突然荻野ないし被告人から立退交渉等の関係で契約当事者として志学館の名義を使用したい旨申入れがなされ、各相手方当事者もこれに応じたものであることに照らせば、まさに荻野が、売買契約の当事者の名義を誰にするかという点についてまで決定権を握っていたものと解されるのである。

以上の次第であるから、所論は理由なきこと明らかである。

3 荻野・志学館間の売買取引の仮装行為性

(一) 土地A、B及び建物Dについては、叙上認定のように、荻野が三洋工業より取得し、これを名義上志学館に譲渡したこととしたものである。

証拠上、荻野と志学館との間に右土地、建物につき一億円で売却した旨の昭和四八年二月二八日付売買契約書(符18)が存在し、また、志学館の昭和四八年以降の決算書には、荻野との右取引にかかる貸借関係及び売買益が記載されており、他方荻野の元帳(符35)、同所得税確定申告書等書類綴(符3)には、昭和四八年三月二八日に志学館に対し売却したものとして差益四六五万円を計上する等の外形が整えられていることは、たしかである。

しかしながら、当時、志学館は資金に困窮していたため、一億円で購入する資力は全く無く、右一億円の代金を荻野に支払った時期は、転売先の長谷川工務店からの初回金一億五〇〇〇万円の代金受領の後であったこと、志学館の元帳には、当時荻野からの借入金の記載がなく、右支払のために、当初金融機関から資金手当をはかった形跡も窺われないこと、右売買契約書の作成自体も長谷川工務店からの入金後に初めて行なわれたこと(乙10、第一一回公判調書中の荻野の供述部分)、また、荻野は右契約日前の同年一月一二日頃、旭和興産の甲斐に対し本件土地を土地価格として坪当り一一〇万円(合計四億八四五〇万六〇〇〇円)で売却することを承諾する旨の売渡承諾書を交付していることがいずれも認められる。

更に、荻野は、同年七月二日頃長谷川工務店から売却代金の残金三億九三九六万八〇〇〇円の支払を受けた直後の同月一二日頃に、被告人に対し、謝礼の名目で現金五〇〇万円を交付していること(符36、16、乙2)や、被告人が本件土地建物の買収に尽力してきた昭和四六年以降同被告人に対し交付した約一〇〇〇万円につき謝礼の意味で精算を要しないものとして贈与したり、翌四九年四月二八日頃にも現金四〇〇万円を交付し(乙2、乙10、符12、16)、その際、「志学館川崎税金関係の二一〇〇万円也の第一回内金」という但し書入りの預り証を徴し(符12)、荻野において川崎物件の売買に関する税金を自ら負担する意図が存していた事実も認められる。

(二) これに対し弁護人は荻野がその所有する三洋工業から買取った土地A、B及びDの建物を志学館に一億円で売却したのは、被告人が荻野の代理人として、右土地上には三洋工業以外の所有にかかる建物やその居住者がおり、これをも買収し立退いて貰わねば、土地買収の意味がなくなるところから、これらの建物所有者であるゼネラル交易や居住者に対し立退きの交渉をしたが、居住者の立退きが仲々はかどらず、その原因が、建物の売買を口外しないとゼネラル交易代表斉田と約束したのにこれを居住者に漏らしたためであるとされ、斉田から、「たとえ建物がくさっても荻野には絶対に売らない」という強硬な態度にでられたため、被告人も困惑し昭和四八年一月末にいたり、右買収、立退から一切手を引きたいと申出でた結果、荻野も買収交渉の一時停止を了承せざるを得なかった事情にあったところへ、志学館理事としての被告人から同年二月一八、一九日頃、当時財政状態の苦しい志学館の資金づくりに充てるべく、右土地建物を志学館が譲受けて、その土地の一部を転売して利益を得、残りの土地に外国学生の宿泊寮を設置したいから右土地建物を譲受けたいとの申出を受け、荻野としても、このままでは三洋工業に支払った買受代金は勿論、志学館に対する貸金七〇〇〇万円も回収できないと困惑していたところから、買受けた土地建物が現金化されるなら、一憶円の現金を回収ないし取得できることになるし、それによって志学館の財政上も助かり、焦げついた貸金七〇〇〇万円の弁済も受けられるようになれば一挙両得として一億円で志学館に売却することとした。そこで被告人は、爾後、志学館の理事として同館のために川崎物件の売買交渉を行なったのである旨主張する。

荻野、被告人の前記公判調書中の供述部分、第八、九回各公判調書中の被告人及び荻野の上申書の記載によれば、一応右の事実にそう供述も存在はするが、しかしながら、第八回公判調書中の証人甲斐長治の供述部分甲30、第六回公判調書中の証人竹田拓也の供述部分甲18、29、符31によれば、荻野は、ゼネラル交易の斉田及び中電商事の菅野らとの間で買取の交渉をする一方、既に昭和四七年一一月頃旭和興産の甲斐専務に川崎物件の売却を依頼し(第八回公判調書中の証人甲斐長治の供述部分)、昭和四八年一月中旬頃、本件物件を土地価格として坪一一〇万円で売却することを承諾する旨の売渡委任状を交付していたこと、旭和興産ではその頃長谷川工務店にこの話を持ち込み、昭和四八年一月二五日付で本物件の物件説明書を交付したこと(甲31)、長谷川工務店では現場を調査していること、二月二三日に台東区下谷の「タカラホテル」に荻野、被告人、甲斐及び長谷川工務店の竹田が会合したこと、その当時は未だ志学館名義で売却するとの話は出ていず、また、被告人と右甲斐との間で本件売買の話がまとまれば手数料を内密で半分わけるとの約定までなされていた事実(符41中の甲斐長治の名刺裏面記載の念書)が認められる。

また、甲19、20、21、第五回公判調書中の証人菅野清治の供述部分によれば、被告人が終始、荻野の代理人として行動しており、昭和四八年二月一九日頃に至ってそれ迄の荻野の代理を取止めて、今度は改めて志学館の理事としての立場で売買交渉を相手方と始めたとする形跡は窺われず、吉野の如きは依然として荻野の指示に従い、同人へ売却さすべく菅野との交渉にあたっており、契約を締結する直前になって初めて被告人及び荻野から名義人を志学館として欲しい旨の申入れがなされた事実が認められる。

更に、被告人の昭和四八年版手帳(符16)によれば、弁護人において前記買収交渉一時断念の段階として一月下旬から二月一八、一九日頃にかけて取引が中断していたと主張する期間においても、被告人は、絶えず荻野と連絡をとりながら、右斉田、加藤、菅野、吉野等と売買交渉をしていた事実も認めることができる。

(三) 右の各事実を総合すれば、被告人は終始一貫して荻野の代理人として行動していたものと認めるのが相当である。

また「建物がくさっても荻野には絶対に売らない」等との斉田の言辞は、不動産取引のかけひき、売買価額の引上げの口実とみるのが相当であって、荻野を買主と認定することの妨げとなるものとは解されない(第一五回公判調書中の供述記載部分によれば、現に荻野自身、斉田は荻野を憎んでいるわけではなく、値段上積みのため荻野とは絶交だなどと喰ってかかるだけで価格さえ希望価格まで高くなれば、荻野個人にも売るとわかっていた旨供述しており、この間の事情を認識していたことが明らかである。)。

更に川崎物件が後に至り、実際に五億円以上の価格で長谷川工務店に譲渡されており、同年二月中旬ころには、荻野もその程度の価格で売却し得ることを認識していたにもかかわらず、これを代金全額後払の約定で僅か一億円で譲渡したとされ(弁護人は、これは当時の異常な地価上昇の結果である旨弁解するが、所論によっても荻野が志学館へ譲渡することを決意したのは二月中旬であり、長谷川工務店との契約締結との間に一か月しかなく、しかも既に一月一二日ころには坪一一〇万円の価格が提示されていたことに照らせば、右弁解は到底容れることができない。)、しかも立退交渉が難航したといいながら、その後短期間で交渉が成立し立退いてしまったこと(弁護人は、これまた志学館理事としての被告人の超人的な熱意と努力の成果である旨主張するが、同一人たる被告人の交渉内容が荻野の代理人の立場と志学館理事たる立場との相違によって、それほど極端に変わり得べくもないのであって、むしろ契約相手方の供述等によれば、要は立退料上積も含めた買収価格上昇の故であることが認められ、しかも荻野は既に昭和四七年末ころから売却先の選定にかかっていることに照らせば、そのころから交渉成立の自信を深めていたものと解されるのであるから、右弁解も容れることができない。)及び、投下資本の回収は志学館に手持資金がない以上、川崎物件が転売されて初めて実現されるものであって、その交渉にあたる者が前後を通じて同一人たる被告人であることからすれば、荻野が志学館に売却することが一挙両得とは到底言い難いし、志学館に当事者が変わったとしながら、そのころ既に進んでいた川崎物件の一括売却交渉はそのまま進捗して売買契約成立に至っており、その間一部の土地に寮を建設しようとする動向が全く窺われないこと等を勘案すると、弁護人の主張は極めて不合理、不自然であり、しかも荻野は多年不動産業に従事しこれに精通しているのであるから、不動産取引のかけひきや相場に明るい筈であることなどを前記各事実と併せ考えると、志学館への譲渡は仮装であったとみるのが相当である。

4 志学館の意思決定の不存在

(一) 叙上認定のように被告人は荻野の代理人として行動したものである。

ところで志学館の寄付行為(甲51)によれば「不動産の買入れ又は処分に関する事項」は理事会の議決を要することとされている(第二四条第四項)。しかるに志学館の理事会議事録(符39、甲22、25、28)によれば、川崎物件全体の購入及び売却に関しては理事会の議決はおろか、これが開催された事跡すらないし、各理事に対し個別に本件取引につき了解を求めた事実もなく、従って、法人としての志学館の意思決定はなされてはいないものと認められる。

ただ昭和四八年二月二八日付で建物C1につき、理事四名が出席のうえ購入に関し審議した旨の議事録の記載はあるが、しかし前掲各理事の供述によれば、単に銀行に対する関係で必要であるとの抽象的説明が被告人からあったので内容をよく知らぬまま押印したことが認められ、また関係証拠によれば銀行借入金の使途等その実行内容が議事録記載の内容と全く異っていることも明らかであるので、右の記載は前示認定を左右するものでない。

また、本件取引の損益が志学館に帰属するものとした志学館の元帳(符26)、決算報告書(符25)に記載されている事実はあるが、右取引に関する記帳は本件逋脱の発覚後意図的に作成されたものであると認められる(甲53)。

(二) これに対し弁護人は、志学館の意思決定について理事会の決議が必要であり、昭和四八年当時の理事は、斉藤、植野、永山及び熊谷の四理事であるところ、熊谷理事は学校の仕事に多忙でほとんど理事会に出席しなかったが、残りの理事は週に、二度、三度と顔を合わせ経営資金獲得の話合(理事会)を開いていた。本件川崎の土地、建物の転売については、同年二月頃、上野駅近くの喫茶店「聚楽」で三名の理事と熊田事務職員との間で話合い、永山財務担当理事に一任することが決議されている。議事録そのものは銀行その他対外的に必要な場合を除いて作成しないことが慣例であったので、本件についても作成していない(第五回公判調書中の証人斉藤龍三郎の供述部分)。したがって、本件川崎物件の売買については法人としての意思決定はなされ、右取引は志学館の経営資金獲得の一方法として志学館の利益のためになされたことは明白である旨主張し、また、志学館が経営資金に窮し、同館の維持存立が危ぶまれたとき、経営資金獲得のため一回限りの不動産取引は、志学館の維持経営という目的達成に必要な取引行為として法人の目的の範囲内の行為である旨主張する。

第五回公判調書中の証人斉藤龍三郎の供述部分によれば、昭和四八年二月頃、喫茶店「聚楽」において斉藤、被告人、植野の三理事と熊田事務職員が会合し、志学館の資金工作につき、永山理事から川崎の土地の件で可能性があるから一応私に任せてくれという申出で川崎の土地の件は一任し理事長その他は関与していなかった、また、当時、議事録は作成していなかったし、理事会の場所も一定していなかった旨供述しており、更に、財団法人の事業目的の遂行に必要である限り不動産取引も目的の範囲内と解されることからすれば、弁護人の主張に一応はそう如きものとおもわれるが、しかしながら、志学館の寄付行為(符43)によれば、第二二条に臨時理事会招集の手続規定はあるが、理事の一人熊谷彰夫は「私は理事会に出席した回数は合計で四~五回に過ぎません。(川崎の土地や建物につき理事会で討議したことはありますかとの問に対し)(答)私が出席した理事会では絶対にありません。植野さんを通じ荻野さんが川崎に土地を持っており、それが売れれば志学館に援助をしてくれるという話は聞いております。それはあくまでも荻野さん個人の問題で志学館が川崎の土地を買ったとか更にそれを転売したとかいう話は誰からも聞かされておりません」「川崎の物件については斉藤館長からも永山さんからも志学館が買うとか転売するとかいったことは一度も聞いておりません」(甲28)と供述しているところからみれば、寄付行為に定めた臨時理事会の招集手続は何ら履践されていないことが認められ、これと議事録の記載すらないことを併せ考えれば、たまたま理事三名が喫茶店で会合したとしても、それを以て寄付行為に定める理事会の決議といえるか甚だ疑問であるのみならず、前掲斉藤龍三郎の第五回公判調書中の供述部分(二一二丁表)によれば、本件取引により利益がでることにつき「まるまる全部志学館が利益を取るというふうには考えておりませんでした。これは永山理事が全面的にやったにしましても、当然それに対する報酬といいますか、金銭の提供に対する報酬といいますか、そういうものを当然出すべきものというふうに考えておりました」旨の供述部分をも併せ考えれば、志学館の各理事等は、荻野に対し、同人の取引につき、志学館名義を単に利用させることによる荻野からの資金援助を期待していたと考えるべきものとおもわれ、従って、この点に関する弁護人の主張も失当である。

5 荻野の計算による本件取引資金の調達

(一) 符14、甲73、74、75、符17、4、21、22、甲22、25、28、符39、甲51、乙2ないし6、8ないし15によれば次の事実が認められる。

ゼネラル交易、中電商事及び菅野清治に対する代金の支払は、荻野の手許現金や、自己の取引銀行の自己名義の預金口座から支払われ、或いは自己振出しの約束手形で支払うほか、三和銀行千住支店の志学館名義の預金口座から引出し支払われていること、右口座に荻野の手持資金が預け入れられていること、右の三和銀行千住支店から志学館名義で借入金がなされ、その金で支払われているが、しかし、右借入金の担保は専ら荻野名義の預金ないし信用保証によってなされており、本件取引開始迄同行千住支店と志学館とは全然取引関係がなく、右支店は荻野の主な取引銀行であること、志学館名義による銀行からの借入れにつき、志学館理事会において審議、議決された事実が殆んどないこと、志学館と荻野との間に金銭消費貸借契約を締結したという書面が存在すること、当時、志学館は資金に困窮し多額の借財を負担していたことの各事実が認められる。

(二) これにつき弁護人は、志学館の売買資金調達の方法につき、三洋工業との売買契約に基づく代金支払は転売できれば優先的に支払う売買予約の形式をとったため現実の資金調達はなく(弁16、被告人及び荻野の前掲上申書)、ゼネラル交易所有建物に対する売買代金六九〇〇万円は全額荻野からの借入金であり、うち二〇〇〇万円については昭和四六年一一月一九日手附金として荻野がゼネラル交易に交付すみの金員をこれに充てることとして昭和四八年二月二八日、合計金六九〇〇万円の金銭消費貸借契約としたものであり(前同上申書、甲73、74)、中電商事所有建物については、売買代金四二五〇万円のうち、手附金一〇〇〇万円は、三和銀行千住支店より志学館が二一〇〇万円の融資を受けて支払い、六月三日の三〇〇万円、六月二〇日の六〇〇万円の支払は志学館の普通預金口座から支払い、残金二三五〇万円は荻野からの借入金で支払っている(前同上申書、弁68、甲75、符4)、菅野清治所有建物については、売買代金六五〇〇万円のうち三月三日支払の手附金一〇〇〇万円は三和銀行千住支店よりの志学館の借入金で支払い、同年六月二〇日の六〇〇万円は志学館の普通預金口座より支払い、残金四九〇〇万円については荻野からの借入金で支払っており(証拠は中電商事と同じ)、以上のとおり志学館の資金調達状況は志学館自己資金一五〇〇万円、銀行借入金二一〇〇万円、荻野借入金一億四一五〇万円であるが、荻野と志学館との間にはその都度金銭消費貸借契約が締結されているのみならず、三洋工業への代金一億円を含めたゼネラル交易への代金等の合計一億七四〇〇万円は志学館より荻野に支払われていると主張する。

しかしながら、これらの資金調達方法をみると、三洋工業については、そもそもその取得代金は全額荻野が支出したものであり、そして、三和銀行千住支店志学館名義普通預金から三月二八日に一億円が払戻され、荻野と志学館との一億円の売買契約(符18)の履行として代金決済がなされたような形式をとっているが(符14)、右志学館名義預金は長谷川工務店からの売買代金を入金したもので単に名義上に過ぎず、荻野に帰属するものであることは後記預金の管理状況において述べるとおりである。

ゼネラル交易に対する売買代金六九〇〇万円については、手附金二〇〇〇万円のほか、契約時に支払った現金三〇〇〇万円及び額面一九〇〇万円の約束手形はいずれも荻野の資金から全額支払われたものである(甲73、74)。

中電商事に対する売買代金四二五〇万円については、そのうち一〇〇〇万円は三月三日、三和銀行千住支店から志学館名義で借入れした二一〇〇万円のうちから支払われているが(符4中の当座勘定照合表、甲75)、三和銀行千住支店と志学館とは、これ迄取引がなく、右借入れも荻野が同行支店の主取引金融機関であった関係から、同人を保証人として、同人の資産を担保とし、同人の信用と協力によって貸出しさせたものである(符22)。また、六月一日現金三〇〇万円、同月二〇日現金六〇〇万円、同月二九日現金二三五〇万円が支払われているが(符17中の領収証)、弁護人は右のうち三〇〇万円と六〇〇万円は志学館の普通預金口座から支払った旨主張するが、右預金口座の原資は前記長谷川工務店から支払を受けた一億五〇〇〇万円及び三月二八日に三和銀行千住支店を介してインド銀行から借入した六〇〇〇万円であって、右金額を入金した志学館名義三和銀行千住支店普通預金から六月一三日五五〇万円を払戻したうちから充当したものであり(符14、17)、右インド銀行からの借入れも、荻野の信用で三和銀行千住支店の保証を得て借入れたものである(甲75、符4、22)。六〇〇万円は荻野が自己の手許現金四二〇万円を右志学館名義の普通預金に入金し、ここから一二〇〇万円を払戻し、そのうち六〇〇万円を充当している(符14、17)。

二三五〇万円については、昭和四八年六月二九日、荻野が三和銀行千住支店から長男茂を保証人とし、志学館の校舎と敷地に根抵当を設定させ、荻野名義で七五〇〇万円を借入れし(志学館所有の不動産を担保とした点については、同行支店も荻野が同館の実質的経営者とみていたからである。符21)、手持金二〇〇万円を加えた七七〇〇万円を右志学館名義の普通預金に入金したうえ、同預金から五二五〇万円を払戻し、このうち二三五〇万円を充当し(符14、17)、その余の四九〇〇万円は、後記菅野清治に対する建物Eの売買に充当した。

菅野清治に対する建物代金六五〇〇万円については現金で、三月三日一〇〇〇万円、六月二〇日六〇〇万円、同月二九日四九〇〇万円を支払っているが、右のうち、一〇〇〇万円については、前述の中電商事に対する支払のため三月三日借入れた二一〇〇万円のうちから支払われ、六〇〇万円については、前述の中電商事に対する支払のため六月二〇日、一二〇〇万円を払戻したうちから支払われ、残金四九〇〇万円については前述の中電商事において述べたとおりである。

また、志学館の寄付行為によれば、同館が多額の借入をなし、あるいはその校舎、敷地を借入のための担保に供することは、いずれも理事会の議決を経た上で栃木県知事の承認を要するものとされている(志学館寄付行為甲51、一二条、八条)ところ、関係証拠によれば前記各借入及び担保設定にあたって、栃木県知事の承認はもとより、理事会の開催すらなされておらず、被告人以外の各理事はその事実すら承知していなかったことが認められる。弁護人は、この点に関し、かかる手続違背と借入の有効・無効とは別異に解すべきであると主張するが、真実志学館が川崎物件の取引主体として、自らの責任と計算において売買代金を調達したものとすれば、かような事態は極めて異例なものであって、むしろ荻野及び被告人が志学館名義の取引であることを仮装するための手段として表面上の形式を整えたものと解するのが相当である。

右事実によれば、本件各取引にかかる資金は荻野の自己資金若しくは専ら同人の信用による銀行借入金によってまかなわれており、従って、荻野個人が全資金の調達をしたと認めることができ、所論は採用の限りではない。

6 川崎物件売却代金の管理、運用状況

(一)(1) 長谷川工務店に対する売却代金の内、一億五〇〇〇万円は、昭和四八年三月二〇日頃、志学館名義で三和銀行千住支店に新規に設定された普通預金口座に入金されており、同年七月二日頃、残金三億九三九六万八〇〇〇円も同口座に入金されているが(符14)、しかしながら、右口座の志学館名義は単なる名義上のものに過ぎず、荻野においてこれを管理し同人が自由に引出していたことは次の事実から認めることができる。

(イ) 右預金通帳及び同預金の届出印並びに同預金から払戻して設定した志学館名義の通知預金証書は、いずれも荻野の自宅内の金庫等に保管されていたこと(甲35、52)

(ロ) 右預金からの引出しは、一回を除いて荻野または同人の担当であった同行の支店長代理水田勝二によって払戻請求書が記載され払戻手続がなされていること(甲54)

(ハ) 昭和四八年八月及び一二月に荻野において自己の総資産を調査し記載していたノート(符1)、財産メモ(符6中のメモ)には、志学館名義の預金が自己の総財産として一〇億円の一部を構成する旨計上されていること

(ニ) 荻野は、昭和四九年九月二八日、志学館理事長斉藤龍三郎並びに同人の妻で同館の理事斉藤カヨの両名に対し、本件普通預金等志学館名義の預金とその利息が荻野に帰属するものであることを、荻野宛の誓約書をもって確認させていること(符11、甲22、23)

(2) 更に、荻野は、自己の計算において本件取引による利益を運用していたものと認められるのである。すなわち、符14、乙13、荻野の第八回、第一五回公判調書中の供述部分、被告人の第九回公判調書中の供述部分によれば、長谷川工務店から支払を受けた売買代金合計五億四三九六万八〇〇〇円は三和銀行千住支店に設定された志学館名義の普通預金口座(口座番号三〇、〇六七)に入金されたが、そのうち、昭和四八年七月上旬ころまでの川崎物件関係の売買代金、銀行借入金返済等のための出金が終了した以降の出金のうち同四九年五月二一日の東京国税局による強制調査開始までの分で後記二口を除く合計一億四五四〇万円の大半が、荻野の貸金業の資金として運用され、日本敬老社、上武開発、大鵬建設、日医工業等に対して貸付けられ、その余は同人の不動産業等の事業資金として使用されていることが認められる。

更に関係証拠によれば、同四七年七月一〇日出金にかかる一億円は、志学館名義の定期預金設定、解約ないし志学館名義を利用した志学館と全く無関係の荻野個人のための二二〇〇万円借入、返済等の操作をしたうえで、二八〇〇万円余の志学館名義の通知預金設定(この証書を荻野が自宅寝室金庫内に保管していたことは前記(1)(イ)のとおり)及び常陽銀行久慈浜支店の荻野名義普通預金への七五〇〇万円入金に充てられ、後者は荻野個人の土地購入資金として準備したものであったところ、同取引が不調に終わったため、志学館と無関係の同人の知人のために利用させるなどしたうえで前記強制調査着手後に至り、前記志学館名義普通預金口座へ入金されている。また、昭和四八年八月三一日出金にかかる一八二四万円に至っては、ゼネラル交易に対して交付した荻野振出にかかる額面一九〇〇万円の約束手形の決済資金に充てられているが、荻野は既に同年三月二八日前記普通預金から同額を回収しているのであって、明らかに志学館から二重に返済を受けた形となっており、同預金が荻野に実質上帰属することを前提としない限り到底是認できない措置である。被告人は、これも後に荻野に対する貸付とした旨弁解するが、前記預金口座残高が一八二五万円余しかなく、その後の入金予定もない段階にあって、志学館経理担当理事としての被告人が、荻野との事前の相談ないし依頼もないままに一債権者に過ぎない荻野の手形決済資金一八二四万円を自分一人の判断ですすんで支出するが如き事態は到底考えられない。他方関係証拠によれば、志学館は昭和四八年から翌年六月ころにかけて一億五〇〇〇万円にも及ぶ多額の負債を抱えて、日々の運営資金の資金繰りにすら窮し、この間各方面からの借入を受けてしのごうと種々画策していたことが明らかであり、被告人は斉藤館長らから再三前記預金からの出金を請求されながら、同館名義の預金を払戻してその資金繰りに充当した事跡は全く見受けられないのである。それにもかかわらず、前記のとおりこの間多数回多額の払戻がなされ、それがいずれも荻野のためにのみ利用されたことを考慮すれば、同預金に入金した金員すなわち本件取引による利益は、まさに荻野に帰属していたものと解すべきである。

のみならず、荻野は理事長の印を保管し自由に使用しており、理事長印を改印しながら、旧印を依然として使用したりし(第八回公判調書中の荻野の供述部分、第九、第一二回公判調書中の被告人の供述部分、甲35)、結局、荻野が昭和四八年中に「借入金」の名目で引き出した預金額は合計一億六三六四万円に及び、その「返済金」の名目で戻入れた金額は僅か一七〇〇万円であって、従って、一億四六六四万円が同人のために使用されたことが認められる。

しかも、志学館から引出した金員は、後日、帳簿上荻野に対する「貸付金」として処理しながら、前記の志学館が荻野から融資を受けていた借入金七〇〇〇万円との相殺処理はなされていない。帳簿上相殺処理されたのは本件査察が入った後の昭和五〇年八月末日に至ってようやく藤野公認会計士によってなされたものである(乙6)。加えて志学館からは利息支払を受けておりながら一方荻野から志学館に対する利息支払は全くなされていない。更に、荻野は被告人に対し、本件取引に関する謝礼として昭和四八年から同四九年にかけて、五〇〇万円、一〇〇〇万円の各謝礼金と、税金分として四〇〇万円を手交している各事実(乙2、10)を認めることができるのであって、以上の諸事情に照らせば、本件取引による売買益が荻野に帰属することを優に認めるのである。

(二)(1) これに対し弁護人は、売買益は志学館において管理していた旨主張し、種々弁解するので以下個別的に判断する。

(イ)長谷川工務店からの代金は三和銀行千住支店に志学館名義の預金口座を新規設定して入金したものであって、志学館が宇都宮にあるのに同市内に預金しないで都内の三和銀行に預金したのは、昭和四八年三月三日志学館が二一〇〇万円の融資を受けていること、三月二八日、インド銀行から志学館が六〇〇〇万円を借受けた際、三和銀行千住が保証をしていた(甲75)等川崎物件土地、建物の売買に関し金融面の相談相手となってくれていたからであると主張するが、叙上認定のように、三和銀行千住支店は荻野の主な取引銀行であって、同行は荻野を志学館の実質的経営者とみており(符22)、同行の預金口座は名義上は志学館であっても、実質は荻野のものと認められ、届出印、通帳は荻野の下に保管され(甲35)、同行自体、荻野の預金と了解していたのであるから、払戻しは容易であったと認められる。(ロ)東京国税局が荻野宅の捜索差押を実施した際、同家から差押押収された志学館名義の普通預金通帳と財団法人志学館理事長印は、昭和四九年三月一六日まで被告人が保管していたものを、家族と九州旅行をする際、荻野に預けて行ったものであって保管を一任したものでなく、預金残高も僅か四万一八〇四円に過ぎず、売買益を管理したというほどのものではない旨主張するが、却って僅か四万一八〇四円程の少額の通帳まで旅行期間という短期間何故志学館の理事でも何でもない荻野に保管を依頼する必要があるのかという疑問を生じ、その理由を説明し難いうえ、理事長印まで、旅行より帰った後再三荻野と接触している被告人が二か月以上預け放しにしていた点について、何ら説明されていないことは、その反論の理由なきことを自ら示すものである。(ハ)また、昭和四八年三月二〇日から同四九年五月二一日までの間合計三四回志学館普通預金の払戻請求書が書かれているが、これらがすべて荻野のために引出されたのではなく、被告人が本件普通預金から払戻しを受けて支払っているのもあり、大部分の請求書の作成は支店長代理水田勝一が作成したが荻野の指示でなされたものではない(被告人及び荻野の前掲上申書、甲54)旨主張するが、被告人は、叙上認定のとおり、荻野の代理人として行動していたものと認められるのであるから、被告人が預金からの払戻手続を行っていたとしても、そのことにより前記認定を左右するものではないのみならず、払戻請求書は被告人が僅か一回しか作成していないのに対して、荻野は一〇回も作成しているのであり、また所論指摘の払戻は、いずれも川崎物件の購入代金の支払等荻野が本件取引の主体である場合にも払戻をする必要性が認められる出金であって、それを離れた志学館独自の必要性に基づく払戻ではないこと明らかであるから所論は理由がない。(ニ)次に荻野の総資産メモの中に志学館定期預金一億円が記載されていたのは(符1)、当時、荻野がマンション建設を計画し、その建設資金として一億円の融資を埼玉信用金庫杉戸支店に申込んだところ、財産目録の提出を求められたが、しかし、荻野には一億円の融資を受けるに相応する財産目録や決算書がなかったため、自分に関係あるすべての財産的価値のあるものは何でも自己の所有と関係なく書き加え、総資産を可能な限り大きくして銀行を信用させ一億円の融資を成功させるための手段として書いたに過ぎないと主張するが、本来、志学館名義の預金が実際にも志学館に帰属するものであるならば全く荻野と関係ないものであって、それを自分と関係あるものと認識し得べくもないのであるから、既に主張自体失当と言い得るのみならず、同資産メモには標題部に「昭和四八年度分所得税は約七〇〇〇万円の見込」と記載されており、その形式・内容に照らしてまさに荻野が自己の資産と認識していたものを抽出記載したもので、所論の如き銀行に示すメモとは到底認められないうえ、所論指摘の如き事情の存在しない昭和四八年一二月二四日記載の財産メモ(符6中のメモ)にも同様の記載がなされていることを併せ考えれば、所論は到底採用の限りでない。(ホ)更に、昭和四九年九月二八日、志学館長斉藤龍三郎、同妻カヨが荻野宛に誓約書を書いたが、その理由は、志学館の健全な財政の建て直しをはかるためであった。もともと斉藤館長は、資金の計画性がなく、収支を考えないで行動するため、志学館は例年赤字となっているばかりでなく、校舎の所有権まで債権者に取得されたのみならず、昭和四九年六月以来、志学館は本件預金を次々に払戻しを受けて経営資金として使用するので、前途に不安を感じて荻野が斉藤館長夫妻を呼んで、堅実な財政を確立するために誓約条項を相談して取決めたのである。誓約書第七条に「志学館名義の預金と銀行利子は荻野寅市の収入とする」と書いた理由は、荻野の真意を表現したものではなく、以前に荻野が志学館に対して七〇〇〇万円の債権を有していたし、当時の預金残高は、ほぼ同額であったので斉藤館長が無制限に預金を引出さないようにする手段としてかかる表現を用いたものである旨主張する。しかしながら貸金債権がほぼ同額存在するからといって、それを以て直ちに預金及び銀行利子を債権者の収入と表現することは通常考えられない事態であるのみならず、所論を前提とすれば、当時荻野と志学館との間の貸借関係は、むしろ荻野の方が借越であったのであるから、そもそもかような約定を締結する前提事実を欠くこととなる。加えて、斉藤館長の経理処理に不安を感じたからこそ、被告人が昭和四七年から志学館へ経理担当理事として入っていたのであって、所論指摘の払戻も昭和四九年六月二八日以降当日分も含めて僅か三回総計一五〇〇万円に過ぎず、しかもいずれも被告人が運営資金として払戻手続をしたもので、あまつさえうち五〇〇万円は被告人仮払金として、荻野に対する利息支払と広木富作に対する支払に全額充当されていること(第九回公判調書中の被告人作成の上申書)に照らせば、所論の如く荻野が斉藤の所為に不安を感じあえてこの時期に同人から誓約書を徴さねばならないような事情にあったものとは到底認められない。却って誓約書第一項に「志学館運転資金として利用させてもらう金額はいかなる事態が生じても志学館が全責任を持って荻野に返済する」、第二項において「本件に関しては荻野、永山、斉藤の三名のみの話として他の人に対しては絶対秘密とする」、更に第三項に「経理操作担当は永山とし、あくまでも裏操作によって処理する、監査は荻野が行う」等と規定しているのは、同契約書第七条の文言とを併せ考えれば、志学館名義に藉口してなした荻野の取引によって得られた自己の売買益であることを国税局の調査開始後において改めて斉藤に確認させたうえで秘密にしておこうとしたものと考えられる。

以上によれば、弁護人の主張がいずれも理由なきことは明らかである。

(2) 次に弁護人は、売買益の使途についても、(イ)川崎物件取引関係の必要費用や借受金の返済などその一切をその中から支払っており、荻野が志学館普通預金のうちから融資を受けて日本敬老社、上武開発、日医工業等に対し貸付け或いは不動産事業の資金として使用した金員は合計一億四五四〇万円であるが、志学館から荻野が融資を受け、事業資金に使用したのは、荻野が被告人から「志学館の決算期が来年三月末日であり、その時期にならぬと事業計画や次年度の資金計画もたたないので、同年三月末日までに本年度の収支決算をしたうえで川崎物件の売買益についての所得申告をしたい。しかし所得税がいくら課税されるかわからないので、三月末日迄は、この資金の払戻しはしない方針である、七〇〇〇万円の債務の支払もそれ迄延期して貰いたい」との申入れを受けたので、荻野は、右三月迄の間、一時志学館の資金を貸して貰いたい、普通預金に置くより高金利の貸付けをすれば三月迄に相当の利益を得ることができると逆に被告人に申入れ、金銭借用証書を作成して承諾を受け、志学館の預金口座から払戻しを受けて事業資金として利用したものである(被告人及び荻野の前掲上申書、弁73、75ないし80)と主張する。しかしながら、所論は当時志学館が経営資金に困窮していたからこそ、本件取引に及んだものと主張するのであり、本件預金をようやく志学館が取得し得たものとするなら荻野以外の他からの借財の返済にも苦慮していたのであるから、その返済にむけたり、或いは少なくとも更に高利貸し等からの新規借入でまかなっていた志学館の運営資金等のために使用するはずのものであって、かような日常の運営資金にもことかくような志学館が自らのためには一切使用せず、他方で回収の危険性の伴う荻野の貸金業資金のために利用させるべく一億四〇〇〇万円以上の貸出をなしたとすることは到底理解できない措置である。また荻野との間に金銭借用証等が形式上作成されているとしても、志学館を取引の主体と仮装し、売買代金が同館に帰属するが如き外観を作出している以上、当然の処置とも言えるのであって、そのことのみで取引の実質を判定することはできず、むしろその約定どおりの利息支払が一切なされていないうえ、利息支払、返済を志学館側から荻野に積極的に請求した事跡も窺われないし、日本敬老住宅の如く貸金を回収したもの(甲33)もありながら、約定期間までに返済をなしていない。以上によれば所論は単なる弁解に過ぎず採用の限りでない。次に(ロ)荻野が被告人に対し、五〇〇万円、一〇〇〇万円の各謝礼金と税金分の一部として四〇〇万円を支払ったことについては、荻野の昭和五〇年一一月二一日付検察官調書では右五〇〇万円につきこれを否定しており、被告人のこれを認めた供述は検察官の理詰めの誘導尋問によるものであって信憑性がない。五〇〇万円は志学館幼稚園の建物が競売された際、建物を入札し、用地を買収して新しく経営を開始したときの運営資金として荻野から被告人に交付されたものである。四〇〇万円については「志学館川崎税金関係二一〇〇万円也の第一回内金」という但し書入りの預り証を徴し現金四〇〇万円を交付したが、右は本件川崎物件の売買に関する税金を自ら負担したものではなく、「川崎税金関係」とは三洋工業の土地の二年分の固定資産税および三洋工業所有の土地、建物を代金一億円で志学館に譲渡した際の譲渡所得税の意味であり、川崎物件全体についての税とは無関係である。従って、荻野が川崎物件全体の所得税を自ら負担することを決めたものではない。また、荻野は、昭和四六年夏以降のまる二年間に被告人に対し交付した約一〇〇〇万円の金につき、全部謝礼としてあげたことにすると検察官に供述しているが、かかる事実はない。被告人は、四八年二月以降は志学館財務担当理事として本件川崎物件の買収交渉にあたったが、荻野からは金銭の給付を受けていない。志学館理事となってからは毎月定期に志学館から給料の支払を受けていたので荻野からかかる大金を礼金として貰う理由はない、と各主張している。

しかしながら先ず五〇〇万円を受取った点については、被告人の昭和四八年版手帳(符16)の七月一二日欄によれば、「荻野千住9時川崎関係整理五〇〇万〈入〉」旨の記載があり、更に永山高雄名義平和相互銀行普通預金通帳(符11)の同月日欄には同額の五〇〇万円が預け入れられていることからみれば、荻野から右金額が手交されたことは明らかに認められ、被告人が、右金員は「荻野さんの自宅で受取ったもので確か銀行の帯封がついていた」と述べたうえ「荻野さんは、おかげで寝ていた金も自由に動かせるようになったそのお礼です」と具体的に供述していること(乙2)からみても、弁護人の主張するような理詰めの誘導尋問に耐えかねて供述したとはとうてい考えられないし、また、志学館幼稚園の運営資金として交付されたものであると主張するが、荻野の個人事業としての経理がなされていないのはもとより、実際に幼稚園を経営していた志学館の帳簿には何等その旨が記載されていないことからみても右主張はいずれも採用できない。

次に、四〇〇万円の点について、検討するに、荻野が川崎物件の土地A、B及び建物Dを三洋工業から取得した価格は九五三五万円であり、それを僅か四六五万円の利益を上乗せしただけで志学館に売渡したと弁護人は別途主張しているのであるから、右の程度の利益金額に対して、到底二一〇〇万円の譲渡所得税がかかるとは解されず、また固定資産税といっても、その課税標準が時価より相当低く押えられていることは公知であり、その税率も百分の一・四(地方税法三五〇条)程度であるから、その二年分を合せても、とうてい二一〇〇万円などという税金の生ずることはありえない(第九回公判調書中の被告人の上申書によれば、昭和四八年分固定資産税は川崎物件全体でも僅か七七万六三七〇円である。)。その他、右三洋工業の土地、建物にかかる税負担を考慮しても合計二一〇〇万円もの課税額は算定されないので、弁護人の主張はとうてい採用できない。

更に、一〇〇〇万円の件については、一度でなく数回にわけて手交した分であると荻野が供述していること(乙10)や、前掲のように被告人自身も別途五〇〇万円の謝礼を貰った旨供述していること(乙2)と、志学館の斉藤龍三郎でさえ、この取引を永山理事が全面的にやったにしても当然それに対する報酬を出すべきものと考えていた旨の供述をしていること(第五回公判調書中の証人斉藤龍三郎の供述部分二一二丁表)とを併せ考えれば、荻野の検察官に対する供述は信用できるといれる。

従って、この点についての弁護人の主張も採用できない。

(三) 以上の次第であって右の各事実及び荻野と志学館の表面上の貸借関係は、川崎物件取引にかかる売買代金の入金、決済等が終了する昭和四八年六月ころまでは、専ら荻野から志学館への貸付、それ以後は専ら川崎物件売買益による志学館から荻野への貸付となっていること、川崎物件関係での荻野からの借入金のみは、志学館から売却代金入金のつど早急に返済されていること等を総合すれば、荻野が本件川崎物件の売買代金を自ら管理し、その利益金を自己のために運用しているものと認めることができる。

六  弁護人のその余の主張に対する判断

(一) 弁護人は、荻野がその所有する不動産を志学館に譲渡し、志学館がこれを譲受けて他に売却し、利益を収めて、その経営基盤を強化しようとする発想は、本件取引以前にすでに先例があり経験済みであったとして、昭和四七年一一月頃、被告人が荻野に対し当時の志学館の窮状を訴え、荻野所有に係る古河市中田の土地二、二六五坪を志学館に売らせて欲しい、転売してその差額を収得し志学館の運転資金としたいと申出て右荻野の了承を受け、同人から七〇〇〇万円で譲受けて、志学館が関東開発に対し一億六〇〇万円で転売契約を結んだが、関東開発が手付金一〇〇〇万円を支払ったのみで残金の支払いができなかったため右手付金没収のままで終了した事実がある。被告人は、この取引が成功して売買利益三六〇〇万円を入手さえすれば、志学館の昭和四八年三月までの資金不足は賄えたと喜んでいたのに失敗に終り残念であったと申し立てている事実を挙げ、本件川崎物件を譲受けた後、志学館が積極的に売主として、取引を行い、売買の利益を収めようとしたことは、右の先例に照らしても決して不自然なことではないと主張する。

しかしながら右の関東開発株式会社に売却しようとした経緯について、右関東開発株式会社の代表者友兼麗子は「売買契約をした際、荻野寅市さんが私に売主の名義を財団法人英学塾志学館にしてくれと云われ、私はこの土地の謄本をとって所有者は荻野寅市さんになっていることを知っておりましたので荻野さんに『どうして財団法人英学塾志学館という名義にするのですか』と尋ねたところ財団法人名義にすると税金が安くなるから名義を財団法人英学塾志学館にしてくれと云われ私は荻野さんと取引をするので財団法人等知らないから契約書にあなたの署名をしてくれなければ困ると云ったところ立会人欄に署名押印してくれました」、「この契約時に同席したのは私と荻野寅市さんのほかに荻野さんの経理士という永山さんがおられました」「押印の際、永山さんが荻野さんに『おやじさん判こを持って来たかい』というと荻野さんが志学館の印を手提鞄から出して永山さんに渡しておりました」旨述べており(甲13)、右供述によれば、弁護人の主張にそう被告人の前掲上申書の記載や、前掲公判調書中の被告人及び荻野の供述部分は全く矛盾するのみならず、昭和四六年頃、当時、志学館に融資していた田治直康が、資金の回収に困惑していたところ、別に志学館に資金を貸付けていた荻野と面接した際、荻野は同人に対し「私にとっては、学校よりも金が欲しいのだが、学校なんて俺にとっては非課税団体であるというメリットしかない。私は現在理事でも何でもないが実質的にはオーナーであるので、もし、あなたが欲しいのなら財団法人名義の空の領収書を発行してあげるからいくらでも経費でおとせますよ」旨供述していること(甲32)を併せ考えれば、右関東開発に対する取引においても、荻野が非課税団体たる志学館を自己の税対策上から利用したものと認めるのが相当であるから弁護人のこの点に関する主張も採用しない。

右認定に反する証人斉藤龍三郎の第五回公判調書中の供述部分は、志学館の理事長として荻野から多額の融資を受けていたことから被告人らの面前で証言しにくいことや、同人が検察官に対してはより明確にかつ結果として志学館に不利益な事実を供述(甲22、23)していることと対比し措信しない。

かえって、斉藤龍三郎は検察官に対し最初に志学館の名前を使って土地の売買契約をするに至った古河市中田の土地について、「利益がでれば学校の方で使わせてもらえるという話で志学館の名前で取引をすることは承認しておりました」、「本来このような取引を行なうについては理事会にはかり、正式に議決をしなければならないのですが、当時はそのような余裕もなく、ともあれ当座の財政難を打開するために何でもやらざるを得ないような状況でした」、符34の計算書について、「これは古河市中田の取引が不調に終った後、私が書いたものの写しです。……取引の主体は志学館ではなく荻野であるということを明らかにしておくために書いた」と供述しており、更に「川崎の物件の取引の場合も志学館で取引することによって荻野氏から相当の金がでるとのことで一切を自分に任せてくれとの永山の話でありました。………その頃、理事会で正式に議決をしたこともなく、物件の購入資金についてどのような手段でそれを売るかなどということも私はもとより志学館としても関知はしておりません」、「(理事会議事録を示し)議事録によれば川崎物件の買入資金として六〇〇万円を三和銀行より借入れることが理事会で議決されたことになっているが、これも永山氏に云われて盲判を押したものです」、「取引の相手方との関係や資金の借入先との関係で紛議が生じた場合には実質的な取引の主体である永山氏及び荻野氏の方で解決すべきであり、また解決してくれると信じておりました」と供述しているのである(甲22)。

(二) 弁護人は、昭和五三年九月、志学館名義の三和銀行千住支店の七〇〇〇万円の定期預金が債権者山田某申立にかかる転付命令により持ち去られた事実を挙げ、これこそ本件取引の主体が志学館であって、荻野ではないことの極めて自然の見方であることを強調する。

しかしながら、民事訴訟における強制執行としての転付命令の制度は、執行制度の迅速性の要請から、形式上の外観を尊重して執行されるのであって、民事訴訟における権利者の認定は、訴訟手続を異にする刑事裁判の認定に何等の影響を及ぼすものではない。

(三) 弁護人は志学館が真実の取引の当事者であるとして、志学館名義の書証を証拠として多数提出している(弁1ないし4、6、9ないし23、25ないし52、54ないし118)。しかしながら本件は、志学館名義に藉口して仮装行為をなしたと認定しているのであるから、これらの証拠は前記認定を何ら左右するものではない。

また、右書証中に、たとえば「志学館が荻野に貸付けた金員を担保するため荻野所有の不動産に抵当権を設定している」として、荻野寅市に貸付による抵当権設定仮登記申請書(弁102)を証拠として提出しているが、それは本件査察が昭和四九年五月二一日に入ったために、後日に至って表面を糊塗したものとも考えられるし、同様に、これ迄志学館の決算書には何ら計上されていなかったのに昭和五〇年三月年度決算に至って突如「本件土地建物の売買利益金の一部が荻野に貸付けていることが志学館の決算書に記載されている」として志学館の昭和五〇年三月年度の決算書(弁106)を提出していることも同じ手段とも考えられるし、また、右決算書には貸付金として一億二一一六万三三八六円を計上しながら、他方借入金として七〇〇〇万円を計上し相殺をしない不合理(この点被告人は種々弁解しているが)を併せ考えれば、志学館の取引という表面をとりつくろうためともいうことができる。

(四) 以上のとおりであるから、弁護人の所論はいずれも失当たるを免れない。

(法令の適用)

一、該当罰条及び形種の選択

判事各事実につき…………刑法六五条一項、六〇条、所得税法二三八条一項(懲役刑を選択)

一、併合罪の加重

以上の各罪につき…………刑法四五条前段、四七条本文、一〇条(犯情重いと認める判示第二の罪の刑に加重)

一、刑の執行猶予

刑法二五条一項

一、訴訟費用

刑事訴訟法一八一条一項本文(訴訟費用の二分の一を負担)

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 松澤智 裁判官 井上弘通)

別紙(一)

修正損益計算書

永山高雄

自昭和47年1月1日

至昭和47年12月31日

〈省略〉

別紙(二)

修正損益計算書

永山高雄

自昭和48年1月1日

至昭和48年12月31日

〈省略〉

別紙(三)

課税総所得金額及びほ脱税額計算書

永山高雄

昭和47年分

昭和48年分

〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例